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燃えるごみの日くらいの周期で思う事

日曜日が別に休みでもなんでもなくなったのは、いつからだろうな。

ぼんやり考えながら朝から予定を淡々こなしていると、あっという間に午後が訪ねてきた。少し休もうかなと淹れてきた珈琲の湯気を払った自分が最初にやったのは、一口啜る事じゃなくてこのnoteを開く事。全く、笑えてくる。髄まで言葉に侵されているらしい。

気付いてから、冷める前にと珈琲を口に運んで。タブレットのMusicを開いて。「-ing」というアルバムを選択。流れてくるこの音楽は、自分がモチベを上げる時によくお世話になっているものだ。この人の歌は、ネガをポジにしてくれる効果がある。目論見通り「昨日の再放送みたいな今日でもなんか少しやろうかな」と思えてきている。

とりあえずTwitterを起動して、画面の向こうを覗いてみた。フォローしている人のつぶやきが、嬉しい悲しい関係なく無秩序に並んでいる。新聞のラテ欄のようだと少し眺めて、またnoteに戻ってきた。

ここまで読んで分かる通り、私という人間の毎日には特筆すべきものが何もない。過去に遡ってもそう。テレビの再現VTRになる感動エピソードとか、周りが羨ましいと目をハートにする出来事とか、要するに画になる事が0。あるのは、底辺で体操座りをしている冴えない人間の生態だけ。量産型の珈琲と数十円のチョコレートに興奮を覚える、安っぽい人間の思考だけ。

そんな奴の言葉なんて、果たして誰が読みたいだろう――正直そう思う時がある。燃えるごみの日くらいの周期で思う。下手をすると、もっとかもしれない。

ただ、ここが不思議で。にも拘らず、新しく始めたこの場所に多くの人が読みにきてくれるのだ。しかも「エトナシさんの言葉が読みたい」というご指名で。自分でも、何故なのかは分からない。Twitterで鍵をかけてやっている裏垢という空間でさえ謎を残して胡乱なままでいる秘密だらけマンに対して、お構いなしで「あなたの言葉がいい」と名指ししてくるわけだ。他の誰でもなく。これこそ謎だ。謎だけれど、この上なく嬉しくもある。

だからこそ、今の自分は書き続けていられる。自己否定を読者が肯定でコーティングしてくれなければ、とっくに表現者でいられなくなっていたと思う。そういう意味でも、心から感謝している。感謝しています。いつも本当にありがとうございます。

自分という存在には需要がある!なんて胸を張る事は今後一生ないけれど、もしも「この人はどんな風に生きてきたのか」「何を抱えているのか」「どの地点からそういう考え方が出来るようになったのか」「どれに対して感情の波を起こすほどの興味を示すのか」「どういう物を好んでいるのか」を知りたいと願う人が多ければ、マガジンを発売して手に入れてくれた人にだけ深く語っていこうと思う。

例えば、今回のこの日記のような形式で。どうですか?

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エトナシ サラ
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