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1997年8月 事前語学プログラム

 1998年7月31日、これから翌年5月迄のカナダ留学プログラムへ出発する私は、関西国際空港に居た。見送りに母、兄、そして従姉。当時の関空は開港して4年足らずと、まだ自分の中でも「新しいもの」という認識だった。その真新しい関空から、私はバンクーバーに向けて旅立った。

 参加した留学プログラムは自分が通っていた大学と提携関係にあるバンクーバーの大学との交換留学プログラム。その為、同じ大学の学生数人も一緒のフライトでの渡航となった。大学の正規カリキュラムが始まるのは9月。そのフライトで一緒だったのは、1か月間の事前語学プログラムに参加する同級生達だった。

 当時はシート毎のモニターなど無く、映画は前方の大スクリーンに映し出されるもののみ。その時何が上映されていたのか、正直記憶に無い。覚えているのは、ふと眠りから覚めた時、雲海の彼方から昇って来る朝日の美しさ、そして同級生、カネダとミサキがそれを見ながら話し込んでいる姿。その姿に、何やら疎外感を覚えた事を鮮明に覚えている。

 昔から自分は「皆の中に入って行けてないのではないか?」「孤立してるのではないか?」という強迫観念の様なものに悩んでいた。その頃の自分にアドラー心理学というものを教えてあげたいと、心から思う。

 新しい始まりの中で自分がそういった若干後ろ向きな感情を抱いていたのには、他にも理由が有る。出発前に、当時付き合っていた女性アオイと別れており、カネダとミサキは日本の大学でアオイと同じ語学クラスだった。二人が自分とアオイの事、特に留学前にアオイに別れを告げられた哀れな自分の事を話しているのではないか?という、よく分からない被害妄想が有ったのだ。更に、帰国子女だったアオイに対し、海外経験という意味で近づけるのでなないか?と思う一方、フられた後で大した挽回策も講じられなかったアオイと、結局は物理的には遠く離れてしまうとう事に、自分の中で複雑な感情を抱いてしまっていたのだ。

 今思うとたかだか10か月、そしてたかだか日本とカナダである。しかし、当時19歳だった自分からすると、19歳から20歳を跨ぐ10か月は気が遠くなる程長く、そしてまだインターネット黎明期だった当時は、太平洋を越える距離は地球と月程の距離に思えたのも事実である。

 バンクーバーに到着したのは、1998年8月1日の朝。YVRというコードを持つバンクーバー国際空港は、バンクーバー市街地から12キロ程南に位置しており、リッチモンドと呼ばれるフレイザー川の中州に作られた空港である。トロント国際空港に次ぐカナダ第2の空港だが、西海岸に位置している事も有り、アジアからの玄関とも呼ばれる。

 降機した後、少し眠い目を擦りながら、絨毯張りの空港フロアを歩き、「ここで憧れた北米での生活が始まるのだ」と期待に胸を膨らませていた自分の目に飛び込んで来たのは、壁一面の大きな「大橋巨泉の店。OKギフトショップ」の広告ボードだった。異国の地で生き抜く為まずは英語を習得するのである、と意気込んでいた自分の目の前に、大橋巨泉の満面の笑顔と日本語バリバリの広告ボード。夢にまで見た留学生活、冒頭から雲行きの怪しさを感じざるを得なかった。

 バンクーバー国際空港から同級生達と、大学側が用意してくれたバスで大学へ移動した。皆、時差ボケで体がきつく、バスの中では景色も見ずに眠りこけていた。事前語学プログラムでは、全員がホームステイとなる。ただ、現地に到着して即ホームステイでは無く、3泊程大学内の寮に宿泊してからホームステイを開始する事となっていた。

 プレイス・バニエという大学の寮。その時期は北米の教育期間の長い夏季休暇のど真ん中であり、その寮はホステルの様な一般開放されている宿泊施設となっていた。プレイス・バニエという寮は、10つの居住棟と1つのコモンズブロックと呼ばれるカフェテリアや管理オフィスの有る建物で構成されていた。バスから降りた我々は、コモンズブロックで鍵を渡され、居住棟の一つであるカリブー・ハウスで3泊滞在する事となった。尚、この居住棟は一体何年前に建設されたものか分からない。5階まであるが勿論エレベーターなど無く、女性の同級生のスーツケースを手分けして階段で運ぶ羽目になった事をよく覚えている。

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