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写真で伝えたいのは被写体じゃないかも。

それが何で、あるいは誰で、どこで撮られた写真か。じぶんは誰で、なんの仕事をしていて、何のためにこの写真を撮ったか、この写真で何を伝えたいか。

直接またはヒントになるような「匂わせ」を、写真のタイトルやキャプションに書いてしまう。

よくやりがちです。

あなたは写真そのものを見て感じてもらいたいの?それとも「わからせたいわかってほしい」ことのために材料として写真を使うの?

それのなにがいけないの?

いけなくないですよ。「写真はいつ誰がどこで何をどんなふうに撮ろうが自由」写真の楽しみ方は人それぞれ自由。どんなふうに公開しても自由です。

よく使う例ですが「走れメロス」を上演中、最後に出演者が「やっぱり友情って本当にいいもんだな!」「これからも友情を大切にしよう!」と作品のテーマをそのままセリフで言ってしまったらどうでしょう。

たしかに客席には正確に伝わるでしょう。しかし観客はしらけると思いませんか。急に醒めると思いませんか。

観客は作品にのめり込んでいました。登場人物の気持ちになって、胸をキュッと締めつけられて。わざわざ作品テーマを言葉に出さなくてもじゅうぶん感じ取っていた。ちゃんと伝わってたんです。

写真に限らず作品は、公開された瞬間から作者の手を離れ鑑賞者に委ねられます。そこから先は鑑賞者のアンテナしだい。

周波数が異なればキャッチできないこともあるでしょう。逆にビンビンにバリ3(死語)のときもあるでしょう。

伝わるかどうか不安になる作者の気持ちもわかります。しかしここは勇気を出して、相手の感覚を信じてどーんと公開。「どう受け取っていただいてもかまいません」と開き直る。

「はじめてのおつかい」が感動するのは、ひとり立ちする姿勢と見守る姿勢に共感するからですよね。先回りしていつまでも世話を焼いてると自立できません。

タイトルやキャプションで「こんなつもりで撮りました」「こういう内容を感じ取ってください」つい過保護に言葉を並べたくなる作者。

自立できてないのは子供か親か。鑑賞者か作者か。

ためしにいちど何枚か写真だけ並べてみてください。いつもの「最近気になったもの」1日1枚の日録写真なんていいですね。お気に入りのやつを数日分。説明も何も無く、ただ並べる。

相手はきっと面食らうでしょうね。だってタイトルも説明もない。「こう見てください」理解するためのヒントが何も無いんだから戸惑います。

すると人はどうするか。わかんないイコールつまらない人は、見るのをやめます。その他の人は再び写真を眺めます。今度は細部までじっくり。写った人の服装で時代を、映り込んだ看板の文字で場所を探るかもしれません。

しかしそれすら見あたらないとき。鑑賞者は【写真を理解しよう】とするのをやめて【写真から感じ取ろう】とします。写真から流れる気配や、この写真を撮ったとき、景色と向き合ったときの撮影者の気分を。

写真は絵画などと似た部分もありますが、ここが他の美術表現と異なります。写真ならではの鑑賞法ですね。

「わかりにくいかも」「伝わりにくいかも」そう思っても案外ちゃんと伝わりますよ。たとえば短歌や句のように。

短歌や句の作者は目の前の情景を言葉で描きますね。ところで、作者が伝えたいのは描かれた情景でしょうか。

月明かりで山が見えた。(あの山の向こうにあなたが住んでらっしゃって、もう会えないのかなと思ったら寂しくなった)カッコの中のほうが大切じゃないでしょうか。

描かれた情景を読み、その奥にある作者の気分や感情を想像して、思わず胸が熱くなるのではないでしょうか。

それが「作品から伝わる」ってことだと私は思います。


見かけ倒しの写真や説明写真ばかりでなく、被写体の先にある撮影者のまなざしや気分が感じ取れる写真。そういうストレートな写真が増えたなら。そこを感じ取れたなら。もっとわくわく楽しめると思いませんか。