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見た感じのまま写真に撮るむずかしさ

「被写体の魅力を無言で語り続ける」それが私のめざす写真です。まちがっても自分の腕前を誇るための道具ではありません。

とはいえ、それは私の写真に対する考え方。もっと別の写真の楽しみかたをする人がいてもいいと思います。「賞を獲りたい」「人にほめられたい」という人がいてもなんとも思いません。

Instagram や Twitter には連日、はっとするような写真がアップされ話題になります。色あい、スローシャッター、合成、完璧な構図、雰囲気強調の前ボケ…テクニックを駆使した写真は見た瞬間「きれい!」と叫ばずにいられません。こうして多くのハートマークを獲得します。

ところで、あなたはそれらの写真を1年後に覚えてるでしょうか。1月や1週間後でもあやしい。きれいなものは一瞬で強く心を動かされますが続きません。

一方で「きれい」と似たものに「美しい」があります。

実は全然違うんですね。ためしに「きれい」「美しい」実際に口に出してみて。「わーきれい〜!」すこし高めの声で伸ばすような「きれい」。一方で「…うつくしい…」つぶやくような深い「美しい」。「じょり〜!」「…べる…」フランス語でも似た発声なのが興味深いですね。

美しいものは心に残ります。デジタル全盛の時代でも写真の名作と呼ばれる多くはフィルム時代の白黒写真。人々の心に深く残っています。

美しいものは、かならずしも「きれい」とは限らない。「どぶねずみみたいに〜美しくなり〜たい〜」ヒロトが歌ってることでも御存知でしょう。しかし「写真には写らない美しさがある」と言ってるのは残念。正確には「写真には写りにくいけど美しく撮れる」私はそう思っています。ヒロトに会ったら言ってやりたい。

話がそれました。もうすこし話がそれます。

料理を食べに行くとき、当然ですがおいしいものを食べたいと思いますね。おいしさとは素材の味はもちろん、調理法によって焼いたり炒めたり調味料が合わさってできた総合的な料理の味です。(この食材をこんなふうに使うなんて!)と驚くこともあれば(素材の味が引き立つ味付け)と感じることもあります。

ネットでバズった写真を見ていると「素材をいかに上手にカッコ良く料理するか」競い合ってるように感じることがあります。どんな場所もどんな被写体も俺流の料理で俺の写真のできあがり。カッコ良さげに見えるスタイルに観客も増えていきます。

何度も言いますが、それらの人を非難するつもりは全くありません。写真はいつ誰が何をどんなふうに撮ろうが自由なんですから。ただ私は、どんな食材にも自分のソースをどぼどぼかけて「これが俺の味」とやるような料理人ではない。そういったおいしさを作る料理人には興味が無い。ただそんだけの話。

たとえば寿司やお刺身。あれ料理って言える?って思うかもしれないけど、魚は新鮮なうちに捌いて食べるのがおいしい、とも限らないんですね。いろんな技があるみたい。

あるいはお野菜。道の駅で産直野菜を買ってすぐ食べるとわかるんですが、肥料や育て方でこんなにも豊かな味なの!?絶句するほどおいしいんです。にんじんを、大根を、そのまま食べてみたらわかる。シンプルなのに豊かな味わい。なにこの甘さ。感動してしまう。

「写真を撮る」とは、目の前の光景の一部を切り取る行為です。画面に何を入れるか意識する人は多い。けれど画面から何を切り捨てたか自覚して撮る人はほんとうに少ないんです。

写真学校時代「画面中央だけでなく四隅まできちんと見て写っているもの全部に責任を持て」と強く言い続けてきました。撮った後で「こんなのが画面内にあった」と言うのはだめ。見ているようで視ていない証拠。でもね、そういうのが多いんです。被写体しか見てない。

こういう人は被写体を「主要被写体」のことだと勘違いして認識します。そうなると画面に「背景」が生まれます。でも、普通に考えてみて。日頃の視線に「背景」は存在していますか。無いでしょ?

四隅まで責任を持つ。それは「あなたが見て、はっとして、撮りたいと思った」そのままである証拠。そこには「主要被写体と主要被写体が支配する空間」があって、それらまとめて「視覚が刺激を受けた被写体」なんです。ああ文字で書くとめんどくさい。

あなたが角を曲がるとそこに絵になる人が立っていた。「いいかんじ!」と思ったあなたは写真を撮ろうとした。あなたの頭は「被写体は人物」と考えるかもしれませんが、実際は、その人が立ってる空間まるごとにあなたの目が反応したんです。疑うなら証拠を見せましょうか。

その人を別の場所に連れて行って同じポーズと表情をさせてごらんなさい。あなたが見たのと同じ感じに写らないはずです。それどころか撮る気さえ起きない。「そのときその場所」でしか成立しないんです。被写体は「空間まるごと」なんです。背景なんて存在しないんです。

なんでこんな基本的なことを世の中の写真教育で教えないのかあきれるばかり。

写真を撮るとき。その前段階の「写真を撮ろうと思った」あなたの目の前には、撮りたくなるような光景が現れているでしょう。あなたはカメラを取り出して構えます。そこで「作為」が始まります。

(もっとかっこよく)(もっときれいに)(写真を見る人にもっとわかりやすく)(もっと感動的に)…数え上げたらきりがないほど、秒単位であなたは想いにとらわれていく。

その時点であなたは眼前の食材を「オレサマがもっとおいしく料理してやるぜ!」腕まくりしてニヤつくスケベな料理人になりはじめています。

あなたは眼前の光景の魅力に、はっとして立ち止まったんですよね?だったらそっくりそのまま撮って、そのまま写真を見る人に体験させたらいいんじゃないですか?なぜそこで(もっとわかりやすく)とか(もっと整理して)なんて考えちゃうわけ?味も鮮度もどんどん落ちちゃうでしょ。

見た感じそのまま撮る。もしも見た感じそのまま写真で再現できたなら、写真を見た人は、あたかもあなたの隣で同じ光景と出会ったかのように、あなたと同じ気分になるかもしれない。場所も時間も異なるのに、あなたが撮った写真を見てあなたの気分を共有する人がいたら、あなたはうれしくてうれしくてしかたないでしょう。

その人は写真の前であれこれ聞いてくるかもしれない。「これはどこですか?」「この方はどなたですか?」まちがってもその人は「うまい写真ですね〜」とは言わない。残念ながら言ってくれないんです。だがそれがいい。あなたの写真世界にすっかり引き込まれている証拠だから。

あなたが、はっと心を揺らした光景。素材の味が伝わった瞬間。あなたは出会ったときの話をするでしょう。相手も関心を持って聞いてくれるでしょう。

あなたが写真を撮る人で、もっとうまくなりたいと思うなら。あるいはある程度写真を続けてきて、ちょっと飽きてきたなと感じ始めているなら。あなたが思う「うまい写真」とはどういう写真か、もう一度ゆっくり考えてみたら良いと思います。

もし(撮影テクニックが足りない)と気になって、本やセミナーで技法をたくさん覚えたなら、あなたは「どの技法をどこでどんなふうに使うか」ではなく、「どの技法をどこでどんなふうに使わないか」を意識すると良いでしょう。そうすることで身についた技術は格段に上がります。

世の中のスクールやセミナーではいくつも撮影テクニックを教えてくれます。技法をたくさん知って得した気分になるでしょう。先生も大満足。win-winの関係です。ところが実際に使えない。次の回に「あとからあの技術を使えばよかったと気付いたんですが…」みたいな弁解が多い。アタマで技法を知っていても、いざというとき使えなければ何の価値もないんです。

写真を撮る上で大切なのは、撮影技法を「どこでどれだけどんなふうに使うか使わないか」そこに気付かないと、上手な人が教えてくれるスクールや地方サークルが居心地良くていつまでも離れられないでしょう。

私がずっと続けているのは、独り立ちする作家を育てる。あなたしか撮れないあなたらしい写真の撮り手としてさっさと巣立たせる。「いつ」「誰が」「どこで」「何を」「どんなふうに」撮っても自由なのが写真です。そこに正しい写真教育があるなら、師弟関係のまま頼らせ続けるのでなく旅立たせるのが正解だと思います。まあ実際にやるとひとりひとり寄り添うことになるから10人も抱えてられないですし、ずっと同じ生徒がいるほうが経営は安定するんですけどね。それじゃいけない。

表現教育は「教える」機会は多いですが、その本質は「育てる」ほうにあると思います。その両輪が揃ってこその教育。そこまで理解せず、ただ産業としての関連が写真は特に多いから、なかなか表現者が育たない。

最後に私が学生時代、我が師匠に言われた言葉を書いておきます。

「1日最低1枚以上写真を撮りなさい。1日も休まず毎日写真を撮り続ける。10年続けられたら君は写真家になってるよ」

気になったものならなんだっていい。自販機横のゴミ箱でも髪型を変えた同僚でも、「朝起きて抜けた布団の形が面白かった」でも、「今朝は目玉焼きがじょうずにできた」でもなんでもいい。とにかく「気になった」ものを撮るんだ。
誰に見せるためでもない、自分の日記のように、写真で日記を書くように。日記なんだから誇張することも見栄を張ることもない。ただありのまま撮るんだ。
見た感じそのまま再現しようと思ったら、ひとりでに撮影テクニックは身についていく。自分の写真ってそういうものだよ。

自分のために撮らなければ、自分の写真になりっこない。