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『素敵なダイナマイトスキャンダル』


映画を思い出しながら、つらつらと感想文。


月曜は近所に映画を観に行く。メンズデー1200円。

僕は大の映画好きではなくて
ほどほど映画好きでもなくて
公園散歩したり飲みに行ったり
余暇を過ごすうちの一つの選択肢。
映画は自分にとってそんな距離の存在。

仕事柄、舞台はいままで数多く観に行ったし
映画演劇ダンスマイム舞踏...
あらゆる舞台表現を観てきた。


キャリアや固有名詞はあまり興味が無い。
自分は表現を感覚で観ていく
色調整がデタラメなテレビも数年前から見ていない。

なので人名がことごとく弱い。壊滅的に知らない。
有名人の名前も全く知らない。

今回は珍しくパンフレットを買ってきたので
おそらく間違えずに語ることができると思う。

ちなみに前回パンフを買ったのは
『幼な子われらに生まれ』だった。
邦画が続くが洋画もフランス映画も好きだ。
『幼な子〜』はとてもリアルな演技で
子役が子役演技ではなく素直に引き込まれた。

非言語コミュニケーションを扱う自分は、
「見せる と 見える」「伝える と 伝わる」
この差をどんなしくみや仕掛けで埋めていくか
作り手側に立ったとき、そこが気になる。
観客として物語に引き込まれる自分も、同じ瞬間にいる。

まるで交響曲のスコアのように、
いくつもパートに分かれた楽譜を横断しながら
先の小節を目で追いつつ、耳は今のハーモニーを聴く
舞台撮影や演技と同じような頭の配分で見ることが多い。



大学4年生。サークルの部室に行くと
「どこに行こうかなあ」
一人でいくつも内定を取った友だちばかりだった。
銀行、生保、商社...名前を聞くとどれも大手。
一方で学生時代、全国を旅していた自分は
就職課から卒業見込証明の発行を断られる。
4年生で60単位近く残っていれば当然だろう。
履修条件見ながら月曜1限から土曜4限まで埋めて
夏季集中も他学科専門も枠いっぱいまで履修
1年生に混じって朝から晩まで大学に通った。

どう考えても大学5年目は避けられそうに無い
ダブルスクールのつもりで夜間の写真学校を申し込んだ。
卒業アルバムも追い出し行事も色紙も見送る側。
3月下旬、雪の降る日だった。
大学の掲示板を見に行くと卒業者名に自分が載っていた。
卒業後、週3日カメラ量販店で働き写真学校に通い始めた。
1985年春。

「アラーキー」も「写真時代」も「編集長のスエーさん」も
当然、リアルタイムで見て読んで知っている世代。



予告編を観ながら
中井貴一と佐々木蔵之介の『嘘八百』と
どちらを観ようか少し悩んだ。

「なんかなつかしい感じ」「昭和感に浸るのもいいかも」

かなりラフな感じで映画を決めた。
『素敵なダイナマイトスキャンダル』

この時点で誰が出るとか予備知識ほとんど無し。

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「素敵な」とかタイトルに付く映画って多すぎるんだよ。
だいたい誰が何に対して素敵なんだよ。
ダイナマイトもスキャンダルも誇張表現に良く使われる。
それがある意味「文字通り」とか
郷愁を誘う表現になっているとは全然思いもせず、
完全に気楽な受け身モードで映画は始まった。


すぐに色味とコントラストに気付いた。
今のデジタルなら暗部こんなにつぶれない。
まるで昔の写真印刷のよう。
全体がイエローに転ぶのもなつかしい。

(ちょっとこだわって作ってるのかな)

タイトルから文字が流れる。
いささかやり過ぎ感のあるキャスト名表記も
(ああ、こういう感じだったよね70-80年代って)
むしろ観ていて懐かしさより面白みを感じた。
地方に行くと昭和の香りが残る喫茶店がある。
これは昭和後半を通したデザイン史でもある。


白夜書房の本たちは、エロを扱いながらサブカル誌だった。
映画を観て初めて気付いた。

「写真時代」がイロエロだけでなく
考現学や社会学や文化人類学だったり
それは「体験」していた。
でもそれが「サブカル」とは結びつかなかった。
今のサブカルより全然先を行ってたじゃん。
あるいは全然別物だったような気がする。


ひとくちにエログロ雑誌と簡単に呼べないように
この映画も行きつ戻りつする。
まるでこの映画自体が、あの頃の「写真時代」のようだ。

ブルー色した画面。
鉱山なら柵原あたりだろうか。
方言の中でも簡単そうで難しいと言われる岡山弁。
ネイティブが見てもじゅうぶん通用する。
涙が出るほど話に引き込まれた。

岡山弁を使った映画や舞台を観たことあるけれど
ここまで徹底されて感情がきちんと乗っていて
演出・役者ともやってしまいたくなる誇張も全く見られない
実に嘘の無い自然なシーンだった。
川崎に出て来た父と子の会話でも極めて自然で驚いた。

「方言」と「美術」は、自然に感じられて当然。

そのために、どれほど努力や苦労が必要になるだろう。
ほんのちょっと「作ってます」が見えちゃうと急に興醒め。
少し意地悪な目線で「あら」を探したけど、すぐにやめた。
だって見つからないし、そんな見方しても楽しくないから。


「隣の家の息子とダイナマイトで心中したおかあさん」
色狂いだったのかな...けれどそこに不治の病があって
愛する主人や子どもに感染させたくない気持ちもあったろう
前半さらり色香に見えたのが後半せつなく感じてきて
ほんの少しで感じさせる尾野真千子さんはすごいなあ。

アラーキー。どうすんだろ。本人ご高齢だし...と思っていたら
本人よりちょっと地味かな、みたいな役者さん。
ところが乗ってくると「ああ、ああ、そうそう、こんな感じ!」
かすみ役の瑞乃サリーさんをどんどん乗せて脱がせるところとか
これ現場に居る人全員、本気で芸術って思ってるよなあ。


話の流れでは脱ぐことになるだろうなあ...
頭の隅で思いつつ
いったい映画でどこまで見せてくれるのか
雑誌のグラビアページ開いたときみたいにドキドキ。
淫猥ならハダカを写せばそれでいい。
淫靡な美しさ、情念。
やはりアラーキーは天才だし写真は芸術だ。



「北の国から」洞口依子や裕木奈江「昨日、悲別で」の石田えり
なにか心に残る、放っておけない気持ちにさせる登場人物。
出てくるたび(そうだよなあ、放っておけないよなあ)
主人公に共感してしまうのは、
自分もこういうタイプの子が気になるのかもしれない。
三浦透子さんの感情表現、ぐっと来た。

すごく変なこと言っちゃうかもしれないけど、
乳が出て自然な感じ。見えて自然な感じ。
あるものがそのままある自然さや美しさは感情表現を邪魔しない。
決心の要る体当たり演技かもしれない。
けれどそれがとても自然。卑猥な感じは全く無い。

ほら、よくあるじゃない?
(事務所の都合でここまでしか描写できません)みたいな映画。
愛し合うところで画面が溶けて、鳥が鳴いて朝が来ましたみたいな。
嘘っぽくなって「お約束」で見ることになってしまう。

そこがちゃんと映らなきゃ意味が無い。
「そこ」って外性器じゃないよ。情念とかそういう部分。
たぶん写真時代の編集姿勢も似た感じじゃないかなあ。

この映画は、「映画の写真時代」なんだよね。ごった煮の情念。
ページをめくるといろんな男女の思いが視線に表れてくる。
ときおり時が戻ったり、時間のページをめくる。


松重豊さんは、もうぴったり。
映画の予告編で見てラスト部分、最高!
全く裏切られない。ひょうひょうと見えてすごいなあ。

嶋田久作さんは適役!この人以外いない!
(あれ?グランギニョルの舞台観たけどひょっとして...)
すごくなつかしかった。そしてリアリティあった。

おふたりは舞台で観たことあるので資料無しで感想書けた。


主人公の末井さん。
予告編に出てくる乾いたような笑いの演技が印象的。
こんなのできる人、舞台役者で何人かしか知らない...
名字を見て「もしかして...」
お父さんが柄本明さんと知って激しく納得。


そうだよなあ。

すごいよなあ。


役者めざす人は演技の勉強として
監督めざす人は編集の勉強として
デザイン学ぶ人はデザイン史の勉強として
経済を学ぶ人はバブル期の勉強として

ともかくも、
誰がどんなふうに間違って観に行っても
『素敵なダイナマイトスキャンダル』
なにかしら引き込まれるポイントがある映画。


まさにそれは80年代に現れた写真時代に代表される雑誌そのもの。
間違って手に取っても、ページをめくれば好奇心が広がっていく。
隠すなんかよりよほど健全な発達・発育だろう。



現代。ちまたで「これがすごい」と言うものほど大したことがない
実際以上きれいに見せたり、すごく見せたりが横行している。
コンビニ、コンピュータ、携帯、ネット...
便利なツールが広がって豊かな社会になっている。

のりとピンセットで写植貼り込み原稿を作ったり
連絡取るため店にたむろすることもなくなった。

「すごくきれい」に見えるものは
日々生まれ日々消費され消えていく。
けれど「きれい」と「美しい」は違う。

あのころ「すごく美しい」と感じたものは
今も心のどこかに残っていて
音楽やファッションを見ると思い出されて
あのころに負けないものを作りたいと発作的に思う。



警察に警告され続けても出版を続けていた主人公は
承認欲求や自傷行為の側面もあったかもしれない。
そんな人間らしい一面を持っているから彼もまた
母(尾野真千子)や笛子(三浦透子)のように
魅力的な人に映るのだろう。

そんな彼の気持ちを
牧子(前田敦子)は気付いていたのだろうか。
作りたいものを作り続ける彼を見てどんな気持ちだったろう。
犬やジグソーパズルなど、気持ちのかけらが見えてくる。

みんなちょっとずつ不器用に生きていて愛おしい。



(あ、このシーンで終わりそう)

(このシーンで終わりだとヤダな)と同じくらい
「ここで終わりが来そう!」と感じることがある。
今回ぴったり。

そうだよね、ここで終わるよね。

余韻は後味。
口の中に残しながら映画が終わった。
イイカンジ。



声高に訴えるでもなくノスタルジーでもない

たとえるなら


「よう、あんたひさしぶりだな!今なにしてんだ?」

昔の自分がひょっこり現れる。


「腰巻きお仙」のポスターで腰を抜かしたように
今なにかに向かってるのかい?
こんだけ年を取ったんだ。
邪魔物も無くなって好き放題できるだろ?


自分で自分を自主規制してどうすんだよ
人生は短い、今しか無いぜ。







表現者は見たほうがいいと思います。



『素敵なダイナマイトスキャンダル』<公式サイト>