見出し画像

 働くことに生きがいを求めて〜19 新たなる壁 前編。


この物語は自己体験に基づいた作文(小説)です。
ここまでのお話はこちら

1980年 h君  23歳 春。
東京へ戻る。

h君は窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめながら、特急の振動に身を委ねていた。長野での生活も、これで終わりだ。しかし、東京本社から突然の辞令が届き、明日からひかりが丘店の紳士靴売り場に配属されると聞かされたのは数日前のことだった。慌ただしく荷物をまとめ、今、東京へと向かっている。

 「戻ってこられて良かったね」と家族や友人は言ってくれたが、h君の心は複雑だった。というのも、h君は1か月前に膀胱炎を発症し、2週間前に退院したばかりだった。入院前には塩尻店の店長として赴任する話が持ち上がり、当初は渋っていたが、病み上がりの清々しさで心がすっきりし、転勤を受け入れる気になっていた。しかし突然、東京へ戻るよう指示された。これはh君の体調を考慮した配慮と思われたが、どこか素直に喜べない気持ちがあった。せっかく覚悟を決めた意気込みを外されたような肩すかし感と、長野での仕事をやり残したようなわだかまりが胸に残っている。

 しかし、そんな思いを口に出すわけにもいかない。会社の指示に従うのが社会人としての務めだと、自分に言い聞かせる。

 新しい配属先となるひかりが丘店には、どんな同僚や上司が待っているのだろうか……。長野での不完全燃焼が胸に引っかかり、少しだけ不安な気持ちを抱えつつも、h君は前を向こうとしていた。

星友ストアひかりが丘店は、都内から郊外に延びる私鉄沿線にある。新宿まで30分ちょっとで行ける。この店は、都心への交通アクセスが良いベッドタウンに位置している。
店舗は地上8階・地下1階の大型店で、靴売り場はフロアごとに分かれている。婦人靴は1階、紳士靴は3階、子供靴は4階で、いずれも衣料品と同じフロアに配置されていた。h君は3階の紳士靴売り場を担当しており、肩書きこそないものの、実質的には責任者にあたるポジションに就いている。

h君が転勤して1週間が過ぎた。店舗のメンバーはみな心良く受け入れてくれたようだった。
10時開店。売り場に活気と緊張感が入り混じっている。3階の紳士靴売り場で、h君は靴を丁寧に並べ直しながら、お客様が少しでも手に取りやすい配置にしようと工夫を凝らしていた。彼の隣には、19歳の若手社員・田辺が同じく陳列を手伝っている。

田辺はh君より4歳年下で、細身ながらも鋭い目つきと精悍な顔立ちが印象的な青年だった。フレッシュな若さと対照的に、まだ高校時代のヤンチャな雰囲気を髪型に残している。彼は、近隣店舗の佐山店長に強い憧れを抱いており、それを公言してはばからない。
田辺はいつも楽しそうに佐山の話をしては、「こういう時、佐山店長ならこうすると思うんすよ」と口癖のように言う。ちなみに佐山はh君と同い年だ。だからか、田辺は長野から突然戻ってきたh君を佐山と比較している節があり、h君のことを「体調を理由にわがままを言って東京に戻ってきた、軟弱なやつ」と見なしているらしく、どこか軽んじている様子だった。

 「hさん、この並べ方で大丈夫なんですか?」田辺が挑むように小声で囁く。

 h君は少し戸惑いながらも、「うん、長野ではこういう配置が結構売れてたんだけどね……」と答える。しかし田辺は興味がなさそうに「ふーん」とだけ呟き、あからさまに見定めるような視線を陳列に向け、さらにチラリとh君を見て、ついっと踵を返し他の棚に移動した。

 そんな2人を見守るように、パートの加藤さんが棚の拭き掃除をしている。50歳前後の彼女は、少しぽっちゃりとした柔らかな雰囲気を持ち、いつもニコニコと笑顔を浮かべていた。h君が東京に戻ってきて最初に心が安らいだのが、彼女の「おかえりなさい」という温かな言葉だったことを、彼は思い出していた。

 しかし、その穏やかな空気は長く続かなかった。
その日の午後岩木店長が3階の紳士靴売り場に来るなり、

 「おい、hッ! 何だその陳列は!」

 店内に響き渡る怒声に、3人の動きが一瞬止まる。h君が驚いて振り向くと、靴売り場の総責任者の岩木店長が険しい顔でこちらを睨んでいた。まるで、h君がとんでもないミスを犯したかのような厳しい眼差しだ。聞くところによると岩木は大学時代に日本拳法をやっていたらしい。実はバリバリの体育会系だったのだ。

 「こんなセンスの悪い並べ方で、お客様が買う気になるとでも思っているのか? わかってるのか、ここは東京なんだよ、長野でのやり方なんか、ここじゃ通用しないんだよ」

 h君は言い返すこともできず、ただ「すみません」と頭を下げるしかなかった。岩木の冷たい指摘が胸に突き刺さり、自分の行動や考え方を否定されるたびに、胸の奥に宿っていた自信が少しずつ崩れていくのを感じる。

 横目で田辺を見ると、彼はどこか冷めた表情で一部始終を見ていた。その目は「ほら見ろ、やっぱり」とでも言いたげだった。彼の視線が、まるでh君が先輩として足りない存在であると証明するように感じられ、h君は心の中で小さな痛みを覚える。

「そんな言い方しなくても……」と、加藤さんが小さく呟いたが、岩木には届かなかったのか、さらに厳しい言葉がh君に浴びせられる。

岩木は自分の言いたいことだけ言うと
「自分で考えて今日中に売場を直しておけ」と言い残し、とりつくしまもなく帰っていった。

 取り残されたようにh君が呆然としていると、加藤さんが声をかけてきた。

 「hさん、大丈夫ですか? ちょっと言い過ぎだったわよね、店長さん……」

 「……ありがとうございます。なんとか……」とh君が答えると、加藤さんはふっと柔らかく微笑んだ。

 「長野で頑張ってきたhさんなら大丈夫よ。きっとここでも、すぐに慣れていけるわ」

 加藤さんのその言葉に、h君は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。自分を理解してくれる人がここにもいる――そのことが、救いに感じられたのだ。

 閉店後、h君は社員通用口から出て駅に向かう。
h君は、首を項垂れ肩を落とし、
足どりは鉛のように重かった。
電車の窓に映る自分の顔は、少しやつれて見える。長野で磨いてきた技術や経験は、岩木の前ではまるで意味をなさないのだろうか……そんな思いが、不安の波となって押し寄せる。  

 岩木はその後、h君に対して、ことあるごとに細かい指摘を繰り返し、そのたびにh君を厳しい言葉で叱りつけた。この日はその前哨戦だった。
靴の位置が少しでもズレていれば怒鳴られ、声のトーンが小さいと怒られ、客の前での立ち居振る舞いにまで口を出される。ひとつひとつの指摘は確かに正論ではあるが、それがh君には、まるで自分が完全に無価値だと宣告されているように感じられてならなかった。

「自分は本当にこの仕事に向いているのだろうか?」
長野では誇りを持って取り組んでいた靴の販売の仕事が、今では自信を失わせるものに変わってしまったように感じていた。

1ヶ月後、
そんなh君に追い打ちをかける出来事が起きた。
いつものように開店して、開店時の5分間のお客様お出迎え挨拶が終わった。そのままルーティンになっている商品へのハタキかけを始める。紳士靴売り場の3人で手分けして、自分の持ち場をパタパタとやっていた。

すると上りエスカレーターから岩木店長がやってきた。いつもの巡回時間より早いと思っていたら、後ろに渋いグレーのスーツに身を包んだ、小柄で細身の中年男性が続いて歩いてくる。(あっ、矢部部長だ)とすぐに気がつく。h君は矢部部長が苦手だった。前の店の飯田店へ転勤したときに一悶着あったからだった。
「おはよう」と岩木店長が言うのに続き、
「おはようございます」と矢部部長がにこやかに丁寧に声をかける。
 h君の体が逃げようとする。半身の体制のまま、少し斜めに体を折り曲げて「おはようございます」と言った。
すでに背中に嫌な汗が流れ出していた。

矢部部長を招き入れるように、岩木店長が右手を売場の方にかざしてエスコートする。
その時部長は売場に足を踏み出そうとしたが、顔はメインディスプレイ台の方を向いていた。

「なんだ、これは!」

といきなり大きな声を出す矢部部長。
声には怒気があった。
はっとして部長が指さす方を見る。
そこには紳士靴売場のメインステージ台の下の床に、直に並べられた紳士靴が6足あった。
「床に直接靴を置くなって、何度も言ってるだろう!大型店では禁止だって伝えたはずだ!」
矢部部長が岩木店長を叱責し始めた。
途端に岩木店長が「申し訳ありません」と部長に頭を下げた。
そしてすぐさまh君に向き直り
「床陳(ゆかちん)はやめろっていつもいってるだろ!」と言い放った。
h君は呆然とした。そんなこと一度として言われたことなどなかったからだ。
頭が混乱してしまった。
「聞いてねーよ、いつそんなこと言ったよ!」と岩木店長への怒りでいっぱいだった。
しかし、体は部長に向き直り、体を45度に折り曲げてさらに頭を下にさげ「申し訳ありませんでした」と言っていた。

部長の怒りは止まらなかった。
「困るんだよね。こういうことをやると。また百貨店の方から馬鹿にされるんだ。大型店といっても所詮スーパー上がりだから商品に対しての感性がないんだなぁ。俺たちはモノを売っているのじゃなくて、お客様に生活の提案をしているんだ。床に直に商品を置くなんて、農家の畑の隅で売っている野菜じゃあるまいしさぁ、と言って馬鹿にされるんだよ。
岩木店長、監督不行届だなっ」と苦虫を潰したような顔で、岩木と h君の顔を交互に見やった。
その後部長は気分を害したらしく、通常ならば、2 、30分は滞留するところを、5分も留まらず早々に引き上げてしまった。

h君は2人の後ろ姿を見ながらがっくりと肩を落とした。
その背中に若い社員の田辺は「ひでぇなぁ。なんて野郎だ」と呆れた声を出した。
加藤さんは「hさん気にしなくていいわよ。今のはどう考えても岩木店長がおかしいと思うから」と慰めてくれた。しかし h君は怒り心頭に発していた。人生で最高の屈辱を感じていた。

 その夜、h君はいつも以上に疲れ切った体を引きずるようにして、ひかりが丘駅からの帰路に着こうと改札を通りホームに上がりやって来た電車に乗った。
 電車の中でふと、自分がどこへ向かっているのかも分からなくなった。座席に腰を下ろして窓の外を眺めながら、「このまま電車に揺られ続けて、どこか遠くへ行ってしまいたい」と思った。
窓に映るやつれた自分の顔を見ていると昼間のことを思い出した。
また、怒りが体の奥から湧いてくる。
でも、

 「上司に逆らうなんて、できるはずがない」

 会社という組織の中で、上司に反抗するなど許されない――そう考えると、結局自分にできるのは黙って従うことだけのように思えてしまう。特に岩木のような強権的な上司の前では、意見を述べることさえ難しい。岩木はどんな時も強い口調で部下を叱責し、逆らう者には容赦しないという空気を放っていた。h君は、そんな岩木の前で萎縮し、縮こまってしまう自分に対して情けなさを覚えつつも、どうにもできなかった。

「ひでぇ野郎だ」とつぶやいた田辺の言葉を思い出す。
あまり自分のことを認めていない田辺の口からこんな言葉がでるほど、岩木店長の行為は愚劣だったのだ。
いくら何でもあそこであの行動をするとは、思わなかった。まるでテレビドラマの中の嫌な上司の見本みたいなことをやっていた。
自分を否定されたことよりも、岩木の人格を疑った。
そして悲しかった。俺はこんなクズのような人間の下で働かなければならないのかと。

 ようやく自宅にたどり着いたh君は、靴も脱がずにワンルームの玄関先に腰を下ろしてぼんやりと天井を見上げた。壁にかかる時計の針が、秒を刻む音だけが静かな部屋に響いている。かつての自分なら、仕事で困難があっても「もう一度やってみよう」と自分を励まし、奮い立たせることができた。だが今のh君には、そんな前向きな気持ちがまったく湧いてこない。

 「このまま、ずっとこの生活が続くんだろうか……」

 小さな呟きが、部屋の中にかすかに響いた。上司に逆らうこともできず、逃げることも許されない閉塞感がh君の心を締め付けていた。会社を辞めるという選択肢も頭をよぎったが、それを実行する勇気も湧いてこない。ここまで自分なりに築いてきたキャリアを、理不尽な上司のせいで捨ててしまうのか――そんな自分の弱さが、さらに自己嫌悪を強めていく。

h君は、今までやってきたことがすべて無意味に思えてきた。
ふと、長野でのつらかった1年を思い起こしていた。
長野では、転勤当初こそ孤独に苛まれた。しかし、周りの人のやさしさに支えられて、耐える力を徐々に養うことができた。さらに一人のパートさんとの確執に悩まされたが、他の社員やパートさん達の励ましで、これも乗り越えることができた。さらに突然の入院生活も読書で克服し、会社の指示を受け入れ、仕事の励みとする考え方を学んだ。この1年で自分は大きくなったつもりでいた。文学青年崩れだった弱い自分が1年間の長野生活で社会人として大きく成長したつもりだった。
しかし、今また、たった1人の嫌な上司との出会いで、その自信も崩れかけていた。

何のために、自分はこの会社に入ったのだろう?

h君はブルブルッと頭を振った。
いかんいかんいかん。
これは禁断のキーワードだった。開けてはいけないパンドラの箱なのだ。
これを考えはじめると明日会社に行きたくなくなり、辞表を書きたくなる。
h君の昔からの悪い癖、マイナス思考一直線コースになる。
ブルブルッと再び頭を振る。
今度は振った勢いで体が後ろに反り返った。
その動きでお尻が痛くなっていることに気づいた。
腰から下がガチガチに硬くなっていた。このまま朝まで動けなくなりそうだった。

立ち上がり、ベッドまで移動する。
スーツの上着を脱ぎ捨てネクタイを外し、そのままベッドに倒れ込む。
もう考える事はやめて寝てしまおうと思った。
しかし、目を瞑ってすぐに脳裏に浮かんだのは、眉間に皺を寄せて怒っている岩木の顔だった。

あーもうっ!まったく!
クソッタレがぁ!!

眠りは訪れない
浮かぶことは嫌なことばかり。
その思いを振り払うように、再び自分に問いかけてみた。

「何でこんな思いをしてまで働いてんだ俺?」

そもそも何で今俺は好きでもない靴なんて売ってるんだ?
目を薄目に閉じると、そこに自分の過去を映し出すスクリーンが浮かび上がった。
大きな川が見える。緑に覆われたその川岸のほとりを一人で歩く後姿が見える。こっちを振り返る。
一人の女の子がこっちを見て楽しそうに微笑んでいた。
裕美子だった。
 そうだ、俺は大好きだった裕美子と結婚するために入ったんだ。
相手の親を説得したかった。認めて欲しかったんだ自分を。
だから本屋のアルバイトをやめて、ちゃんとした会社の正社員になろうとしたんだ。
この会社の知名度も将来性も申し分なかった。
たまたまそこで働いていた中学時代の親友に相談したら、「うちの会社に来いよ。お前なら1年で店長になれる」と言われ、その気になった。
 別にファッションにも靴にも興味はなかった。靴なんか一足あれば一年中それで済ませる程度の意識しかなかった。それでも、裕美子と一緒になるために、自分の夢を脇に置いてこの会社に入ったのだ。

 けれど、彼女とはもう終わってしまった。だったらこんな会社にいる必要なんて、ないんじゃないか?

 「辞めたい。辞めてしまいたい!」心の中で何度もそう叫んだ。しかし、辞めたとして、次に何をしたいのかが自分でも分からない。ただ今の苦しい状況から逃れたいだけ――それは自分でもよく分かっていた。

 それでもいい、他人に何と言われようとも構うもんか! これは俺の人生なんだ。あんな岩木のような、わがままで気分屋でエゴイストのくそ野郎の下でなんか働いていられるか! 人生の無駄遣いだ!

h君は天井を睨みつけながら、歯を食いしばり、悔しさにうめき声をあげた。あふれる感情が抑えきれず、ふと気づくと閉じた瞼から涙が一筋スーッと流れ落ちていた。
何度も寝返りを打った後、
 いつの間にか、彼は深い眠りに落ちていた。

 翌朝、目覚まし時計の大音量に起こされ、h君はぼんやりと目を開けた。起きた瞬間に岩木の顔が頭に浮かぶ。ああ、もう行きたくない――彼は再び目を閉じて眠りに戻ろうとした。

 そのとき、不意に脳裏に浮かんだのは、ひかりが丘店でいつも優しい笑顔を見せてくれるパートの加藤さんの姿だった。彼女はどんなに忙しい日もニコニコと明るく振る舞い、h君が疲れた顔をしていると「頑張ってるわね。でも無理しちゃだめよ」と、まるで何もかも見透かしているように声をかけてくれる。加藤さんのその温かい言葉がなければ、今頃もっと追い詰められていたかもしれない。

 「加藤さんがいるから……なんとか頑張れるかもしれない」

 自分を支えるものがほとんど見つからない状況の中で、加藤さんの存在だけが、かろうじてh君の心に残る一筋の光だった。だが、それでも岩木の圧力に耐えられるかどうかは分からない。この閉塞感から抜け出したいという気持ちと、何もできない自分へのもどかしさ。その狭間で揺れ動くh君は、体を何とか洗面台に向かって立ち上がった。

後編へつづく。


いいなと思ったら応援しよう!