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働くことに生きがいを求めて〜17。大恋愛の巻後編

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時代背景はスマホもAIの影も形もなかった1978年ごろです。これは自己体験に基づいた小説です。

前編の要約。
佐伯は大学3年の春に二つ年下の裕美子と出会い、すぐに意気投合して交際を始めた。一夏の経験で二人は燃え上がってしまい結婚を誓い合う。佐伯は大学を、裕美子は予備校を、それぞれ中退し働き始める。しかし、二人の外泊が原因で両家の親が大喧嘩に発展し、結婚を猛反対されてしまう。家出まで考えた二人だが、佐伯は正式に結婚を認めてもらう道を選び、百万円を貯めて裕美子の父親に再度結婚を申し込むことに。紆余曲折はあったが1年かけて貯金を達成し、佐伯は裕美子の父親にその通帳を差し出し、頭を下げついに許しを得る。2ヶ月後、両家の対面を経て、二人は無事に婚約を果たし、幸せへの一歩を踏み出した。

〜後編〜

ところが、である、、、
その婚約が決まった日から1週間が過ぎた頃、佐伯のもとへ夜の11時半過ぎに裕美子から突然の電話が入った。彼女の声はどこか暗く、佐伯に「話があるの」と伝えた。場所は裕美子の家からほど近い小さな公園。佐伯が到着すると、裕美子は長いベンチに座っていた。二人は少し間を開けて座り、夜の静けさがその空間を包み込む。

佐伯が問いかけた。「いったい何があったんだよ、こんな時間に呼び出すなんて」

裕美子はしばらく黙っていたが、意を決したように口元を結び、ついに言葉を紡いだ。「私、好きな人ができたの。この気持ちのままヒデと結婚することはできない」

その瞬間、佐伯の心は深い闇に飲み込まれた。言葉が喉に詰まり、声にならなかった。しばらくの間、淡々と事情を話す裕美子の声が続いた。しかし、佐伯の耳は何も聞こえなかった。すべての言葉に、「あぁ」とか「ふ〜ん」としか言えなかった。佐伯はその現実に耐えきれなくなり、何も言えないまま、バイクに乗り、法定速度の倍のスピードで家へと暴走した。死の恐怖など感じることなく。いや,もしかしたら死んでもいいと思っていたかもしれない。家族が寝静まった家に着くなり、風呂場に直行しシャワーを出しっぱなしにして、湯気に包まれながら声を押し殺して泣いた。

1ヶ月後、裕美子は新しい男のもとへ引っ越していった。しかし、その後も彼女からの連絡は途絶えなかった。「会いたい」と時折電話がかかってきた。彼女にはまだ佐伯との繋がりを保っていきたい意志がハッキリとうかがえた。
会うたびに、彼女の顔には青あざができていた。「彼氏に殴られた」と裕美子は無理に笑いながら話す。その言葉の裏に、苦しみが見え隠れしていた。

ある日、裕美子の会社の先輩である高田晴美から突然電話が入った。「会って話したいことがある」と。

待ち合わせたカフェで晴美と会うと、彼女は裕美子がなぜ新しい男へと走ったのか、その背景を語り始めた。

「彼女が新しい男に走った理由の一つに、佐伯さんが優しすぎることがあったみたいなんです」と、同僚は言った。

(オレが優しすぎた?
なんだよそれ、意味がわからない。)
佐伯は心の中でそうつぶやいた。
、そんな彼の表情を読み取ったかのように、同僚の高田は続ける。

「優しさって、すごく素敵なことだし、佐伯さんの愛に包まれて彼女も幸せだったと思う。でもね、女って不思議な生き物なのよ。時々、少し冷たくされたいと思うことがあるの。自分の思い通りにならない部分を感じたい、っていうのかな。全部が思い通りにいってしまうと、なんだか退屈で、物足りなさを感じるときがあるみたいなの」

高田は一度言葉を切り、佐伯の目をじっと見つめた。そして、彼が話を受け止めていると察すると、再び話し始めた。

「彼女が親に交際を反対されている時は、それに負けまいと二人で未来に向かって必死だった。でも、その反対がなくなって、安心を感じた途端、心の中で別の刺激を求めるようになったんだと思う。その心の隙間に入ってきたのが、あの男なの。彼はまるで悪がきみたいでね。わがままで、手に負えないところに、彼女は惹かれたんだと思う」

高田は少し考え込み、さらに言葉を続けた。

「彼女も、この恋はうまくいかないかもしれないって分かってるんだと思う。佐伯さんと何もなかったことにして、普通に結婚してしまえば、それでよかったのかもしれない。でも、佐伯さんが誠実な人だから、彼女は自分の気持ちを正直に伝えたんだ。そして、きっと佐伯さんなら受け止めてくれるだろう、という甘えもあったかもしれない。もしかしたら、あの男と別れたら、また佐伯さんのもとに戻ってこようと考えているかもしれませんね」

そこまで言うと、高田は静かに口を閉じた。

佐伯は何も言えなかった。ただ、自分の知らないところで彼女がそんなふうに考えていたことに驚き、そして、自分があまりに鈍感だったことに虚しさを感じた。これから自分はどうしたらいいのか――そんな思いが、寂しさと悲しさ、そして虚しさとともに胸に押し寄せた。やりきれない思いが渦を巻き、苦しさで胸が締め付けられるようだった。

そんな時、佐伯の職場である靴売り場で、アルバイトの募集があった。佐伯は、調布に住む大学の後輩のことを思い出し、連絡を取ることにした。ちょうど就職活動を終え、アルバイトを探していたという。彼女は佐伯が大学3年のとき、同じ文学研究部に所属していた2歳年下の女性だった。

新入生として入学してきた18歳の彼女は、当時の佐伯にとって眩しい存在だった。いつも明るくて,元気で、彼女がそばにいるだけで,こちらも明るい気持ちになれた。しかし、彼女は部内の他の男子に恋心を抱いており、佐伯は「相談に乗れる良い先輩」を演じていた。その後、佐伯が裕美子と出会い、恋に夢中になったことで、彼女とは自然と疎遠になっていた。

彼女の聡明で明るい性格は、採用をあっさりと決めた。
アルバイトが終わると、佐伯は毎回車で彼女を家まで送った。次第に、学生時代の親しさが戻ってきた。そして何度目かの帰り道、佐伯は彼女を食事に誘い、その次は飲みにも誘った。二人の距離は徐々に縮まり、佐伯は自分の今の状況を彼女に打ち明けるようになった。彼女は深く同情し、涙を流すこともあった。自然と二人の間には新たな空気が流れ始めていた。

ある日の帰り道、彼女を家のすぐ近くまで送り届けた後、車を脇道に停め、少しだけ話をすることにした。
彼女の地元でのことだったため、長くは居られないとわかっていたが、その日はそのまま素直に帰る気になれずにいた。住宅街とはいっても、雑木林に面した道だった。人通りもほとんどなかった。
15分ほど無駄話をした後、静かな空間が流れた。その雰囲気に佐伯は抗えなかった。二人は軽くキスを交わした。

「好きだ」と佐伯が告げると、彼女は微笑みながら答えた。「先輩、私もです」

しかし、彼女の表情はどこか複雑で、こう続けた。「でも、先輩の心の中にはまだ元カノがいますよね?」

佐伯は言葉に詰まった。核心を突かれたからだ。

「でも、今は加藤純子、君が一番好きだ」と、佐伯は真剣に言った。

それに対して純子は少し困ったように笑い、「嬉しいけど、ちょっと複雑です。先輩って、正直すぎて心の中が全部見えてしまいます。今、ちょっと野獣化して見えます」と冗談めかして返した。

「そんなことはない。本当に好きだから、言ったんだ」

「いいんです、野獣でも。でも、もう少しだけ待ってくださいね。私も心の準備を整えたいから」

その日はそれ以上深い言葉を交わさず、二人は別れた。車の中に残る彼女の気配を感じながら、佐伯は一人ハンドルを握り締めた。胸の奥で、少しの安堵と共に、妙な寂しさが広がっていくのを感じた。
「ありがとう」と、佐伯は心の中で呟いた。彼女の言葉に、まだ自分が裕美子の面影を捨てきれていないことを認めざるを得なかったからだ。傷ついた心はまだ癒えず、瘡蓋をかぶったまま。触れるたびに、痛みがぶり返してくる。

きっと、淋しさを埋めようと彼女に近づいた部分もあるのだろう。そう思うと、ほんの少し自己嫌悪が胸を突く。
しかし、彼女といると楽しいのは間違いない。もっと彼女を知りたい,と言う気持ちも,強くあった。

その数日後、裕美子から電話がかかってきた。
毎回、もう会うのはやめようと思いながら、連絡があると会わずにはいられない。そんな自分が情けなかった。彼女があいつの元へ走って、そろそろ半年経とうとしている。未だ未練を立ち切れないのだ。
「もう別れようと思うの。」と電話口から聞こえたときに、佐伯の心はざわめきだした。
「どうして?」
「暴力がひどくて、もう一緒にいたくない。怖いし。だから、そっちに戻ろうと思う。こんなことを言えた義理じゃないけど、引っ越しを手伝ってくれないかなぁ?」
佐伯は声に詰まった。小さく頭の中でプチンと切れる音が聞こえたような気がした(ふざけんな、馬鹿野郎)と思った。
しかし口は「わかった。いいよ」と言っていた
「ありがとう」と裕美子が言った。
「どうすればいい?」
「軽トラをレンタカーで借りてきて、こっちまで来て欲しい」と裕美子。
「わかった」と佐伯は言った。
その3日後、佐伯はあいつが仕事で丸一日帰ってこない日を狙って、彼らのアパートへ軽トラを走らせた。
千葉県のハズレにある街だった。最寄駅から10分程度の場所にあった。おそらく築20年以上経っているだろう。その古い木造2階建てのアパートのサビの浮き出た外階段を2月の寒空の下、静かに登っていく。
部屋の中は、むっとする複雑な匂いが漂っていた。足元に黒猫がいて、急いで逃げていった。主人と違う男の侵入に驚いたのだろう。
走った後、こちらを振り返り、何者かを確かめるように、上目遣いで鋭く睨んでいた。
部屋の中は、猫のトイレや寝床なのか、汚れ物が転がったままに見えたが、ふんなのか食べ残しの食べ物かはわからない。猫の寝床はシミだらけだった。
雑多なものが床に転がっていた。衣類、カップ麺の空、ビールの空き缶など。しかし、部屋の隅にきちんと積まれた荷物の塊があった。
彼女の持ち帰りの品物だった。
そこだけは、ハッキリと周りから隔絶されていた。

「この山と、後は炬燵とテレビとラジカセね」と彼女はてきぱきと伝えてくる。佐伯は何も言わず、黙々と荷物を軽トラに運び込んだ。
もしかしてあいつが急に帰ってくるんじゃないか?
と言う恐怖が佐伯の動きを早めていた。
必要なものを全部運び終わると、佐伯はドアの外に出た。
彼女も出てこようとすると、先ほど飛びのいて部屋の隅で様子を伺っていた黒猫が、おずおずと彼女に近づいてきた。
彼女を見上げて「にゃー」と鳴いた。
裕美子はひざまずいて、黒猫の頭を撫でた。彼女が頭を数回撫で、顎の下を指先でごろごろすると、黒猫は彼女の手と腕に体をすり寄せて甘えた。
「みーちゃんごめんね。私家に帰るから。連れて行けなくて悪いけど、元気で生きてね。バイバイ」と裕美子が言うと、
「にゃーにゃーにゃー」と別れを惜しむように連呼して答えた。
こちらに戻るまでの2時間、車中での2人に会話はほとんどなかった。
空はずっとどんよりと曇っていた。

戻ってきた後、2人はなんとなくまた付き合いだした。
しかし、二人の間には目に見えないベールが降ろされているようだった。半年前と彼女は明らかに変わっていた。どこがどう変わったかは具体的には言えない。少なくとも以前のような仲睦まじい間柄ではなくなっていた。
昔、付き合い初めの頃彼女はこう言っていた。
「私はいくら自由に動いたって結局はヒデの掌の中で泳ぐ金魚みたいなもんだよね」と。
しかし、戻ったきた彼女の振る舞いは、
金魚鉢で飼っていたのが金魚だと思っていたら、いつのまにかクジラになってしまった如く、佐伯が支えきれる器をはるかに超えた大きさになってしまったかのようだった。
そう、佐伯さんが全てだった世間知らずの子が、世の中は、佐伯意外にも面白いことがたくさんあるってことに気づいてしまったのだ。

電話で、後輩の加藤純子に裕美子とのことを伝えた。
すると翌日仕事場に後輩は訪ねてきた。
いつもにこやかな彼女の目が、冷たく尖っていた。
佐伯は彼女をカフェに誘った。
日中の閑散としたカフェの店内で、佐伯はその引っ越しの顛末の一部始終を説明した。
聞き終わった彼女は開口一番
「先輩てばっかじゃないの!お人よしにもほどがある!!」
とやや怒気を含んだ声を、低くく抑えて言い放った。
佐伯は
いつもやさしかった後輩の強い言葉に動揺し、たまらず下を向いた。言葉を探したが見つからなかった。
そして、とにかく彼女に謝ろうと顔を挙げた。するとそこには目から大粒の涙をポロポロとこぼして、無言で泣いている彼女の顔があった。
佐伯は絶句して何も言えなくなり、ただただうなだれ、体を小さくしているしか術がなかった。
彼女は、翌日アルバイトを辞めたいと店長に申し出て、そのまま去っていった。

そんな時、佐伯が勤める会社から長野への転勤を打診された。断ることもできたが、佐伯は行くことを決めた。
心の中で、裕美子との関係に区切りをつけるいいきっかけになると考えた。
彼女に「一緒に来てくれ」と告げたが、まるで,レストランでメニューを決める時のように、少し眉間に皺を寄せ「嫌かなー」と首を少し右に傾けながら言った。
佐伯は「うん,わかった」と言いながら、胸の内で何かが閉じるような気がした。

長野への転勤から1ヶ月後、佐伯は東京に戻り、裕美子と再会した。時間と距離を置くことで何かが変わるかもしれないと期待していたが、彼女の瞳にはかつての輝きが戻っていなかった。二人の間には、あの夏のような熱い感情がもう通い合わないと確信した。

連休明け、東京から長野に戻ると、佐伯は裕美子に電話をかけた。
「もう別れよう」と告げると、裕美子は電話越しに「どうせまた電話してくるくせにー」と軽く笑うように呟いた。
その言葉に、佐伯は微笑みながら「そうだなぁ、そうかもなぁー」と答えた。
そして、受話器を静かに置いた。

「ばかやろう、ほんとうにもう会わないんだよ」と胸の中でつぶやいた。

佐伯の中で何が変わったようだった。
一つの舞台の幕が降りたように感じた。

長野でのひとりぼっちの生活が始まっていた。

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