脳でしか食べられない話(3)
前回の記事から大分日が空いてしまいましたが、本年内に完結させたかったので。
前回の記事
過食嘔吐が親にバレた日、私は母に会社を休ませられて母が作ったカツの卵とじとご飯150g、マカロニサラダを食べさせられた。今年の3月25日の話だ。
私は糖質が怖かった。今思うと何がそんなに恐ろしかったのか分からないが、炭水化物を多く含むものは血糖値が上がりやすいものが多く、兎にも角にも太ると思っていた。論理にして糖質が敵だというのは大きな間違いだが、当時は付け焼き刃の知識に絶大な信頼を置いていたため、無知とは恐ろしい。
カツの衣を剥がしたい気持ちを抑え、震える手でご飯を食べた。おいしいけれど、よく知っている味。そう、嘔吐のスイッチを入れる味。私は泣いてしまった。身体にこんなものを吸収したら太る。1回じゃ太らないことは分かっても怖くて怖くて泣いた。また前の太った自分になるのが死ぬよりも怖くて辛かった。私は泣きながら勇気をだして母親に「もう限界。マカロニサラダは怖くて食べられない」と告げた。一瞬「食べなさい!」怒鳴られることも覚悟したが、母は優しい声で「無理はしなくていいよ。食べられるものだけ少しずつ食べなさい」と言ってくれたのでまた泣いてしまった。
慣れというのは良くも悪くも必ず訪れるもので、私は葛藤しつつも日々食べることに慣れていった。最初は怖くて食べられなかったものも、1週間経てば少しずつ、2週間も経てばこれまで物凄い我慢をしてきたのだから、という具合に捉えて割となんでも吸収できるようになっていった。当然体重が増えていくがそれがまだ恐ろしかった私は、YouTubeを観ながら自重の筋トレを始めていた。
コロナ禍でジムが閉鎖し始めてている時期でもあり、「宅トレ」ブームが来ていたのでそれに乗ったかたちになった。やり始めると誰にも負けたくない質の人間なので、私は朝の20分と夕飯前の20分、徹底的に筋トレをやりこんだ。体重は維持できないながらも、運動するほどに罪悪感を消すことはできた。
元々勤勉な方で、やり出すと知識をつけてのめり込み、周囲を超越したくなるので、筋肉のつく食事や運動後の効率的な栄養補給、部位を分けたトレーニングや休息、超回復……とにかく、とことん調べて毎日トレーニングした。コロナ禍の緊急事態宣言が解除されたあとにジムが再開してからは、ジムにも通い始めた。高タンパク、低脂質で運動のエネルギーとなりうる、これまで目の敵にしてきた炭水化物が必要不可欠と知れば、はじめは恐る恐る、徐々に積極的に摂取し、食事の改善管理にも勤めた。気づけば毎日仕事を定時に片付けてジムへ行き、効率的かつ目の前の重量に全身全霊を注ぎトレーニングに励み、食べても罪悪感のないものでスイーツを作ったり、彩りを重視しながら筋肉のつく食事を作ることも楽しみながら、毎日しっかり食べることができるようになった。
トレーニングと食事管理を始めた私は、まるで水を得た魚だった。私にはずっと趣味や特技が見つからず、幅広くさまざまなものに手を出しては極めるほどの才能と継続性が見いだせず、それがまた自己肯定感を下げるいち要因となっていた。私には、取り柄がない。しかし、夢中になれるものには時間と労力を一切惜しまない質であるうえ、努力が数字や見た目など目に見えて結果として表れるものや毎日一定の達成感が得られるものは、その積み重ねでゆくゆくは何をしても得ることのできなかった自己肯定感を着実に積み上げていくことが出来る。つまり、絶え間ない鍛錬を必要とするトレーニングと、数値管理こそが着実な結果を生む食事管理は、ハマれば無我夢中になる発達障害と病的なほど数値にこだわる摂食障害の特性にこの上なくマッチしていた。それも、ポジティヴに。
母親のすすめで、摂食障害の克服や交流を目的にはじめたInstagramも、毎日の更新を重ねるうちに彩りある食事と生活のかけがえの無い記録となり、フォロワーも徐々に増えていった。いつしか、同障害を抱える数人で支え合っていたアカウントは、有難いことに今や同じ悩みを持つ方の支えになっていたり、トレーニングを始めてからはさまざまな経緯で同じ道を歩む新しい仲間との交流の場にもなり、私のライフスタイルを認め、尊敬し、愛してくれるパートナーとの素晴らしい出会いをももたらした。
今年は、世界中の日常の青天の霹靂となり、我々はともすると日常の概念を覆されることとなったかもしれない。しかし、これまで何度も夢やぶれても、希望をくじかれても、明日はきっと美しいと信じてきた私は、奇しくも絶望をきっかけとしていながら未来への尊き希望の光を見出した年である。
「食」が私の人生の大きなテーマであることは、これからも変わらない。摂食障害への扉はいつもすこし開いていて、いつでも私の心の隙間から手招きしているのを感じる。けれども、人生の軸を手に入れた私はもうそう簡単には挫けない。私はもうひとりではないし、正しい努力は必ず実るということを自分自身が証明してきた。何より重要な気づきは、食事は敵ではないということ。そして、大切な人と笑顔でする食事は、心に栄養価以上の効果をもたらし、正しく管理された美しい食事は罪悪感と程遠いものであるもいうこと。食と上手に付き合うことは、長く暗闇をさまよう同志たちにも、脳ではなく心で食事することを可能にするかもしれない。
私の愛おしい人生の記録が、1人でも多くの悩める方の元へ届きますように、愛をこめて。