脳でしか食べられない話(2)
(1)の続きです。
摂食障害を克服していないことに私も気づいていなかったとは言ったものの、実は、色んなものを食べるようになって体重が増えても「根本的なものが治っていないな」ということは当時の私もなんとなく自覚していた。ガリガリに痩せると周りが大騒ぎするからしばらくは大人しくしておくけれど、痩せたくなればまたいつでも戻れるという保険のようなものとして、私は「それ」を胸の奥にしまい込んでしまった。
10代後半には食欲も増して、身体つきも丸みを帯びてきた。月経も再開し、お酒を覚えたり生活習慣が乱れたりして、私は一時期見違えるように太ってしまった。
20歳くらいで、いよいよ痩せなきゃと思いダイエットを決意したが、私のやり方はまたも極端だった。海外個人輸入の、食欲自体をなくすもの、油や炭水化物の吸収を抑えるものなど危険そうな薬を試したり、24時間断食して胃の活動を休止させたり、1日1袋のポテチだけで食事を済ませたり、基礎代謝以下のカロリー摂取になるダイエットを繰り返していた。
一瞬痩せても、結局毎回リバウンドした。やり方が極端なせいで、しばらくした後に必ず反動がやってきて、信じられない量を食べ漁るせいだった。そしていつしか、太る恐怖から大量に食べたものを吐き出すことを覚え、私の摂食障害は過食嘔吐へとフェーズを移していった。
就職してから、仕事が思うように行かず仕事に行くのが怖くなった。学生時代、何もかも完璧に出来て周りからもてはやされてきた私にとって、社会に出て自分が全く使い物にならないことは、殊に耐え難い、人生における初めての挫折だった。
精神科を受診して発達障害と診断された。周囲から理解されがたいその性質で、誰かにミスを咎められる度に人の目が怖くなっていき、私は自己肯定感が酷く低くなっていることに気がついた。いつも失敗する自分を責め、傷つけ、再起不能にまで追い込んでいたのは、他でもない自分自身だったのだ。
それらストレスの捌け口を、私は「食事行為」に求めていた。普段はカロリーや栄養素を1g単位で計算して、徹底的に食事管理をした。吐かずに吸収するものの量は、寸分の狂いもなく把握したくて、ほとんど全ての食べ物を計量して食べるようになった。そして休みの日には、親の目がなければ家で、ときには1人で食べ放題やレストランで、好きなものを狂ったように食べあさった。お腹がいっぱいで苦しくなれば吐き出し、それを一日の中で何度も何度も繰り返す。人一倍食べることと数値管理、見た目の美醜に執着の強い私は、自己管理が行き届く優越感と、食べても太らない魔法のような浪費行為に、どっぷりと依存していった。
もう食べたくて吐いているのか、吐きたくて食べているのかも分からなくなっていた。食べたくて食べたはずが口に入れると途端に怖くなり、吐くために食べたくないものまで大量に食べ続ける。そして全て吐き出す。油分は潤滑になるからたくさん食べて、粉物は固まるから水分と一緒に。米は散らばる、肉は詰まる。こうして、常に吐きやすさを意識して食べ物を「お腹に詰める作業をする」自分がなにか人間ではないものになってしまった気がして怖かった。友達がSNSに美味しそうなパンケーキとかスイーツとかと一緒に、幸せそうに笑った写真を載せている。私はいつから、食べることを本当の意味で楽しむことを忘れてしまったのだろう。
私の変化に、やはり母親が気づき始めていた。食事に行くと、これまで太るといって避けていた油っこいものを大量に食べだしたし、甘いものもたっぷり食べるのに、どんどん痩せていっている。バレるのは時間の問題だった。
母親は、吐くのをやめなさい、食べなさいと、10年前のように泣いて怒った。私はうんざりしていた。母親は10年前に、「お願いだから私のために食べて」と泣いた。今回も「お前は自分のためにしか食べてない、私のために食べなさい」と怒っている。
のちにカウンセリングにて知ったのだが、自己肯定感というものは、幼い頃に失敗をしたときに「仕方ないよ、大丈夫だよ」「お父さん(お母さん)がついているからね」のように、自分を精神的に守ってくれる大人の存在による「メンタルの強さ」と正体を同じくするそうだ。大人になるにつれて、この「守ってくれる大人の存在」を自分の中につくりだし、自分で自分を守るようになる。これが「自己肯定感」だという。
幼い頃から母親は私に、「私に迷惑をかけないで!」「誰がお金を払ってると思ってるの!」と、自己中心的な怒りをぶつけていた。もちろんこれが全てではないし感謝していることもたくさんあるけれど、ともすると私の自己肯定感の低さは、失敗やミスから守ってくれる人がいないまま大人になって、ただ「なんでいつもこうなの!」と叱る母親の顔が、いつのまにか自分自身になっていった結果なのだろうか。
私は、自分を最も傷つける存在も、最もそばで守ることが出来る存在も「自分」だということに最近になって気がついた。365日、自分のそばを片時も離れない自分が一番の味方でなくてはいけなかったのに。
また私は、いつからか人生における選択肢を本当の意味で自分の意思で選びとることを忘れてしまっていた。「親が褒めるように」進学し、「友達が喜ぶように」発言し、「目上の人から一目置かれるように」振舞ってきた私は、本当の自分の意思が分からなくなっていた。他の人に対して優等生の私は、自分の心に対して果たしていつも正直だったろうか?
つまり、自分を認めて自分を愛することに、他人の意思なんて必要ない。痩せていることも優等生であることも、結局幸せでなければなんの意味も持たない。それに気がつくのは、もう少しあとの話である。