アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル
世界で2人目にトリプルアクセルを成功(ちなみに世界初は伊藤みどり選手です。)させ、1992年のアルベールビルと1994年のリレハンメルの2度の冬季オリンピックに出場したフィギュアスケート選手のトーニャ・ハーディング。その夫による、ライバル選手ナンシー・ケリガンへの襲撃事件。オリンピックとか全く興味のなかった僕でも、顔を見たら「ああ、この人か。」ってなるくらい当時センセーショナルに報道されていたんですが。この事件、アルベールビルとリレハンメルのオリンピックの間に起こった事件で、トーニャとナンシーのどちらもがリレハンメルに出場するということで、ふたりの対決がどうなるかってことも含めてよりスキャンダラスに報道されていたんですね(ちなみに、僕はシュッとした美人タイプのナンシー・ケリガンよりも愛嬌のあるトーニャ・ハーディングの方が好きだったと思います。)。その事件を中心に、トーニャ・ハーディングという人の人物像と、その周りの人達との関係性を描いた「アイ,トーニャ」の感想です。
ということで、ライバルでもあり友人でもあるナンシー・ケリガンをなぜトーニャ・ハーディングが襲撃したのかっていうのが今回のお話の中心になって来るんですけど、それを解明していこうとすると、どうしてもトーニャの夫や母親、または夫の友人たちの人となりとか、暮らしていたアメリカ北西部の地域性みたいなものまでを説明しなきゃいけなくなってくるという(そこのところがこの映画のもの凄く面白いところなんですけどね。)。あの、つまり、ある事件の真相を探るのに、事の顛末よりも事件に関わった人達のキャラクター性の方が重要ってことで。これって、ホラー映画的というか、どっちかっていうとエンタメっぽい映画の作り方なんですよね。例えば、ちょっと常人では理解出来ない様な事件(猟奇的な殺人など)が起こった場合、普通に考えて、これこれこういうことで殺人が起こりましたって事件のプロットだけを説明されても納得出来ないわけじゃないですか(そこに常人では理解出来ない理屈が存在しているので。)。それだったら、こういう環境で、こういう親に育てられて、こういう考え方をする様になった人がいたから、こういうことになったんですって説明した方が分かりやすいわけなんですよ。つまり、そういうエクストリームさを映画的に手っ取り早く説明するにはキャラクターを中心にして、それをデフォルメして描いた方が良いわけなんです。で、この映画はそういう作りになっていて。前回感想書いた「レザーフェイス」のオリジナルの「悪魔のいけにえ」、ああいうのと同じ様な作り方の映画だと思うんですね(そして、僕はこの手のホラー映画的見せ方の犯罪モノが大好きなんです。実録ではないですけど、「ノーカントリー」とか、「ゴーン・ガール」とか。最近だと「スリー・ビルボード」がそういうバランスの映画でしたね。実録モノの中では、「悪魔のいけにえ」と、この「アイ,トーニャ」の間位に、昨年観た邦画の「全員死刑」が入ってくるみたいな。そういうバランスです。)。で、キャラクターを中心に描くってことは、いかに興味深いキャラクターが出て来るのかっていうのが重要なんですけど、ここの部分、この映画かなり秀逸なんですよ。
まず、主人公のトーニャ・ハーディングなんですけど、この人、あれだけいろいろ報道されていたわけなんで、みんなが知ってるトーニャ・ハーディング感というのがあるわけじゃないですか。襲撃事件を指示したんじゃないかとみなされていて、ちょっと信用出来ない胡散臭い感じとかあったわけですし、可愛いけど気が強そうとか、わがままそうとかね。で、この映画、こういうパプリックイメージの部分と、それがじつはこういうことでそうなっていましたっていうののバランスがですね、もの凄い絶妙だと思うんです。あの、リレハンメルのオリンピック中の演技で(この映画でも最大の見せ場になっている場面なんですけど)、競技前にスケート靴に問題が発生して、失格になる時間ギリギリでリンクに出て来て、それでもやっぱり納得いく演技が出来ずに、途中で競技を止めて泣きながら審査員にやり直しを訴えるって場面があるんですけど、ここ、当時も、襲撃事件があっての渦中でのこれなので、なんていうか、世間的には「あーあ、また、やってるよ。」みたいな感じがあったと思うんですね。「ほんとに靴のせいかよ。」みたいなのが。で、映画は、それが本当かどうかは言及しないんですね。ただ、"事実と思われる事象"を積み重ねていくとこういう風に見えてきますよねって感じの描き方にしているんです。なので、報道されてるところとは何も変わってないのに観てるこちらの印象だけが変わるっていうことが起こって。しかも、この場面がトーニャ・ハーディングって人の人生にとってどういう意味があったのかっていう見せ方になっているので、リレハンメルでの世間のトーニャへの評価は冷めていたかもしれないけど、映画としてはエモくて切ない素晴らしいシーンになっているんです。こういう現実との反転みたいなのが凄く面白いんですよね。
で、その積み重ねられた"事実と思われる事象"ってのが何なのかというと、映画の中で関係者へのインタビューをしているんですけど、この映画ではその証言を”事実”として描いているんですね。しかも、言葉と同じくらいの比重でその人達の言い方とか見た目とか、要するにキャラクター性に比重を置いているんです。だから、特に事実に関してはそんなに驚く様なことはないんですけど、そこに、こういう性格のこういう見た目の人がこういうことを言っていますっていう方向の新情報が入って来るんですよ。つまり、それによって受け取るこっち側の印象がどう変わってくるかというのをやっているんです。で(正しくここがこの映画のキモだと思うんですけど)、例えば、あのトーニャのお母さん、あの性格でああいう見た目(というか、人間的なセンスってことですよね。)の人が、ああいう言動をしたらどう見えるかってことですよ(あと、夫の友人がまさかのラスボスだったってとことかね。)。だから、事件そのものはもう解決してるし、まぁ、ナンシー・ケリガンがケガしたくらいで(リレハンメルでもナンシーは銀メダル獲ってるので)、そんなにたいした事件ではないんですけど、その事件に至るまでの人間心理のヤバさというかバカさというか(この人間的なヤバさやバカさで、今、正にニュースになってる日本のスポーツ界の問題ありますね。あれですよ。要するに。)。僕、これ観たら、やっぱりトーニャ・ハーディングって被害者なんじゃないかなと思いましたもん。なんて言うか、いろいろ意図してないのに被(こうむ)っちゃう人っているんですよね。なぜか気づくと渦中にいちゃう人。だから、そういう人が、いかにその渦中に至るのかっていうのを克明に見せてくれた映画だと思うんです。(日本のアメフトの問題もあったので、)そういう意味でほんとに興味深くて面白い映画でした。
あの、事の顛末よりも登場人物のキャラクター性を重要視して、それをデフォルメして描くのがホラー映画的って書きましたけど、この映画、ホラー映画よりもほんとに怖いのは、登場人物のキャラクターほとんどデフォルメしてないってとこなんですよ。それが映画の最後に分かるんですけど。そこで爆笑しながら戦慄することになるんです。