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僕はいわゆるシネフィルではないので、自分の人生の中で自然と出会わなかった映画は観てないんですね(キューブリックやスピルバーグは全部観てるけど、ゴダールや小津安二郎は一本も観てないみたいな。)。なので、この映画のかなり重要な部分を担っている『市民ケーン』も未見だったんです(もちろん、これが映画史における傑作と言われてることは知ってました。)が、ただ、あの『セブン』の、『ゾディアック』の、『ソーシャル・ネットワーク』の、『ゴーン・ガール』の、『ファイト・クラブ』のデヴィッド・フィンチャーが監督なわけで。分からないとこがあってもそれなりに面白くしてくれてるだろうとタカを括って観に行ったんですが、いや、さっぱり意味が分かりませんでした。個人的に今最も信頼している映画監督デヴィッド・フィンチャーの最新作『Mank / マンク』の感想です。

はい、というわけで分からないまま観たわけですが、ただですね、分からないながらも良い時のフィンチャー監督のリズムみたいのがあって(例えば音楽との絡みの良さとか。)、ラストの回想と現実が交差するシーンなんかは(なんだか分からないながらも)めちゃくちゃ興奮して、何かとてつもなく面白そうなものを観ているなという感覚はあったんです。なので、そのラストの高揚感の意味を知りたいということもあり、登場人物たちの相関関係と『市民ケーン』を観て(『市民ケーン』、このタイミングで観れてほんと良かったです。なんていうかめちゃくちゃカッコイイ映画でした!)もう一回観に行ったんです(ちなみに、12/4からはNETFLIXで観られる様になりましたので未見の方はそちらでも。)。そしたら、まずですね、めちゃくちゃヒューマンドラマだったんですね、これ。エモーショナルというか。ひとつひとつのエピソードが積み重なっていくごとに主人公(『市民ケーン』の脚本家)のマンクことハーマン・J・マンキーウィッツにぐーっと感情移入していくんですよ(最初に観た時もマンクを演じたゲイリー・オールドマンの存在感によって魅力的なキャラにはなっていたんですが、それ以上に。生き様を感じたと言いますかね。)。何でしょう、最初観た時は、なんかダラしなくてダメな人だな(アル中だし)って思ってたんですけど。2度目に観た時は、あれ、最初観た時半分くらい寝てたかなと思うくらいにマンクのキャラクターに惹きつけられたんですよね。で、これはたぶんそうなんです(実際寝てたということではなくて。)。この映画、ストーリーの半分くらいが回想シーンなんですけど、その回想というのは、マンクが『市民ケーン』の脚本を書くヒントになったエピソードなんですね(で、残り半分が実際に脚本を書いてるところをやるんですが、そのふたつの時間軸が交互に出て来るって構成なんです。)。えーと、だからつまり、回想のエピソードは実際に『市民ケーン』を観てないと、そのエピソードが一体何を示唆しているのかというのが全く分からないんですね。で、脚本を書いてる方のシーンのマンクは交通事故で足骨折して寝たきりだし、ダメだって言われてるのに酒飲んじゃうし、周りの人たちから呆れられてるしでほんとにだらしのないダメ人間に見えるんです。で、それが意図されてたものなのかどうかは分からないんですが、その『市民ケーン』を観てないと分からない回想シーンの示唆するもの。それを理解したことによって、僕はマンクに対する印象が真逆に変わったんです。例えば、呆れられてると思ってた周りの人たちの反応が、マンクを愛すればこそだったんだというように。なので(個人的には、この『市民ケーン』を未見で鑑賞から観てから鑑賞の段階を踏んだことによって)、その起死回生モノというか、底辺からのカウンター的物語(『ロッキー』とかああいうのです。)としての面白さに魅了されたんですよね。

ということで、まずはそういう物語なんですよ。そういう分かりやすくアガる物語なんです(最初に観た時に意味も分からず興奮したのはこの構図があったからなんだなと思いました。理由が分からないのにその構成だけでアガれる様になってるの。さすがフィンチャーだなと思いました。)。それを『市民ケーン』を観ないと理解出来ない様にしてるのがこれまたフィンチャーなんですけど。そういうギミックというか仕掛けの部分を楽しめるかどうかでこの映画に対する印象ってだいぶ変わってきそうですけど、でも、フィンチャーの映画っていつもそうですよね。登場人物に対する距離感がちょっと遠いというか。そういう意味ではこの映画はいつもよりも近い感じはするんですよね。ただ、それが『市民ケーン』を観てないと分からないという。いや、面白いですね。フィンチャー監督。

で、更にもうひとギミック仕掛けられてることがあって。それが今の時代とのリンクってことなんですけど、これもまた『市民ケーン』を観てないと分からないんですよ(つまり、この映画のほんとに言いたいことのほぼ全ては『市民ケーン』によって語られるんです。面白いですよね。)。要するに『市民ケーン』のモデルになったウィリアム・ランドルフ・ハーストという人がどういう人だったのかということなんですけど、多数の新聞社、ラジオ局、映画会社を所有してアメリカのメディアを牛耳っていた大金持ちで、政界にも進出した人なんですね。で、となると、もう誰もがトランプ(元)大統領を思い浮かべますよね。『市民ケーン』はこのハーストが後年没落してひとり寂しく死んで行くって話なんです(ちなみにトランプさんは『市民ケーン』が大好きらしいんですけど、大統領選で負けそうなのに対してあれだけゴネてるの、これ聞くと頷ける気がしますね。結末が『市民ケーン』に近づいていってる感じしますもんね。)。で、『Mank / マンク』は、そのハーストと親交のあったマンクがなぜハーストを揶揄する様な脚本を書いたのかっていう話なんですよ。つまり、映画界で仕事をするマンクがその業界を牛耳っている人物に反旗を翻した理由というのがあって、その謎を追って行く話なんですね。で、それが今のメディア(映画界)に対する痛烈なメッセージにもなっていて。映画の構図的にはその回想シーンの方が対ハースト戦て感じになっていて、脚本を書いている実際の時間軸の方が(それを書くことをマンクがどう表明するのかっていうことが『市民ケーン』の制作にまつわるある因縁に繋がっていくんですけど、そのことによって)対オーソン・ウェルズ戦っていう構図になっているんです。しかも、そのふたつの対決が映画の最後で交差するんです。ここ、ほんとに見事でめちゃくちゃ気持ちいいんですけど、これも、まぁ、観てないと分からないわけです。だから、こういうところも含めて、最高に痛快でアガる映画ではあるんですけど、それは『市民ケーン』を観ないと完成しないという(で、更に言えば、この映画を観ることで『市民ケーン』で描かれてることの補完にもなるわけで。つまり、相互作用してるというか、写し鏡の様な存在になってるんですよね。お互いに。)。未見で挑んだ時は何だか盛り上がりに欠ける理屈っぽい映画だなという印象だったんですか、それが2度目の鑑賞でデヴィッド・フィンチャー最高傑作にまで上り詰めるとは思いませんでした。最高でした(と、主にフィンチャー監督のやり口の面白さについて語りましたが、ゲイリー・オールドマンを始め、俳優の人たちのキャラクターの演じ方も最高でした。主にセリフ劇なんですが、そのやり取りの迫力で全てのキャラクターに人生を感じました)。

https://mank-movie.com/

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【映画感想】とまどいと偏見 / カシマエスヒロ
サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。