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サマー・オブ・84

えー、前回の「メランコリック」の感想で「グーニーズ」の例えを出しましたが、「グーニーズ」が頭の中にあったのは、この映画を観たからかもしれません。映画館でポスターを見た時から今年の夏はとりあえずこれ観ようと決めていました。そのタイトル通り80年代アメリカ映画へのオマージュに溢れた「サマー・オブ・84」の感想です。

’84年と言えば僕が中二の年なんですね。で、恐らくこの頃から本格的に(今で言うところの)サブカルチャーというものに興味を持ち始めたんだと思うんですけど、その筆頭となるのが僕には映画だったんです。で、その映画にのめり込むきっかけになったのがこの2年前(1982年)に公開された「E.T.」だったんですけど。僕の住んでた田舎街には映画館がなくて、映画を観るにはバスに乗って30分くらい掛かる繁華街まで出なきゃいけなかったんですね。でも、確かその映画館でも「E.T.」は上映されていなくて。それでもどうしても観たかった僕は、生まれて初めて電車で1時間くらい掛かる都会の映画館まで観に行ったんですよね(確かひとりで)。小学校6年生の僕にはちょっとした冒険だったんですけど、このちょっとした冒険が、映画の中の少年たちのしてる冒険とリンクして見えてもの凄く興奮したのを覚えています。そのくらい当時のスピルバーグ映画ってパワーがあったし、世界の先端だったし、当時、映画を見た子供たちに多大な影響を及ぼしたエンターテイメントだったんですよね。だから、どうしたって80年代のカルチャーを描こうとしたら、そこにスピルバーグの影響っていうのはもう絶対にあるわけで。’84年を舞台にしているこの映画にも当然スピルバーグ要素というか、大枠は様々なスピルバーグ映画からの引用で出来ているんですね(例えば、主人公の男の子のキャラクターが気の弱いオタク少年だったり、その少年たちが乗っている自転車がBMXだったり、トランシーバーとか、そもそも街で起きている事件を少年たちが解決しようと行動するというのがスピルバーグ的ですよね。)。はい、では、この頃のスピルバーグがどういう映画を撮っていたのかというとですね。まず、監督作で言うと’82年に「E.T.」があって、’83年に(オムニバス映画の中の一本ですが)「トワイライト・ゾーン」、’84年に「インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説」があるんですね。製作では、’82年に「ポルターガイスト」(トビー・フーパー監督)、’84年に「グレムリン」(ジョー・ダンテ監督)、’85年に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(ロバート・ゼメキス監督)と、この年はもう一本「グーニーズ」(リチャード・ドナー監督)があるんです。で、ここで更にスピルバーグ自身の監督作に戻ると、’85年に「カラーパープル」なんですよね。つまり、それまで一貫して娯楽作品を撮ってきたスピルバーグがこの年からシリアスな社会問題を映画の題材にし出すんです。監督としての大きな転換期でもあると同時に、たぶん、時代的にも夢や希望を描くのが限界の年だったんじゃないかと思うんですよね。現実の社会がどんどんシリアスになっていったというか。つまり、この「サマー・オブ・84」の舞台になっている’84年というのは、アメリカが楽しさや豊かさを描いた最後の年なんじゃないかと思うんです(そういえば’84年というのはロサンゼルスオリンピックの年でもありますね。)。

えーと、だから、ただのジュブナイル的青春映画として観ちゃうとちょっと違うというか。まぁ、内容は15歳の少年のデイビーが隣に住んでる警察官のマッキーを、今、街で起こっている同年代の子供たちを狙った連続殺人事件の犯人じゃないかと疑って、親友のイーツ、ウッディ、ファラディたちと独自に調査をするっていう、正しく「E.T.」的であり、「グーニーズ」的であり、「スタンドバイミー」的でもある話なんですけど、これ、子供たちが対峙するものが、宇宙人でも、まぬけなギャングでも、死体でもなくて、殺人犯なんですよね。つまり、ボンクラ少年青春期だと思ってたそこにスラッシャー映画の要素が入って来るんですね。スラッシャー映画ってホラーの中でもエグさが高めのジャンル(「悪魔のいけにえ」とか「13日の金曜日」とかですね。)だと思うんですけど。あの、幽霊や宇宙人が相手であれば、それはファンタジーやSFとして処理出来るんですが、人間が相手だとそれは現実なんですよね。しかも、その現実が狂った状態にあるということで。その狂った現実に少年たちの青春がじわじわと侵食されて行くっていうのがこの「サマー・オブ・84」なんです。スピルバーグ映画観てると思ってたらいつの間にかジョン・カーペンター(スラッシャー映画の金字塔「ハロウィン」の監督です。)になってたみたいな。そういうちょっと普通に観てたら「何これ?」ってなる様な映画なんです。掛かってる音楽もカーペンター的ですし。

僕はスピルバーグもカーペンターも好きなんですけど、そのふたりの監督の好きなところって割と間逆で、交わり合わないところだなと思っていたんですね(両極というか。)。なんですけど、この映画はそのふたつを混ぜ合わせるってことをやっていて(まるでスピルバーグの裏を返すとカーペンターだったみたいな。)。例えば、スピルバーグ映画に出て来る子供たちって割とみんなちゃんと闇を抱えているんですけど(それが思春期物としての深みになっているんですけどね。)、ただ、映画の中ではそこに直接的には言及しないんですね。ストーリーの中で別の何かを乗り越えることによってその闇も克服(実際にはしていなくても)したみたいな感じになって、何となく良かったねみたいな終わり方をするんです。で、それがカーペンターの映画になると、まず最初に、どうしようもない圧倒的な現実というのが描かれるんです。で、その現実をどう対処していくかっていうのが話の本筋になるんですね(つまり、スピルバーグは自己を投影する為に心の闇を、カーペンターは、現実を映す鏡として心の闇を描いてるんじゃないかと思うんです。)。でですね、じゃあ、スピルバーグの映画は現実を全く反映してない夢物語なのかというとそうではなくてですね。人生で経験する出来事、その思い出や未来に対する希望を持てる環境を作ることで、人は闇を抱えながらも生きていけるんだっていうことを言ってるんだと思うんですね(そういう人が「カラーパープル」なんていう圧倒的な現実を描くからグッと来るわけですし。)。だから、トラウマを抱えながら生きている人が社会と対峙する様を描いてるという意味では、スピルバーグとカーペンターの映画は同じことの裏表にあたるのかもしれないです。

じゃあですね、結局、この映画自体が言ってることは何なのかっていうとですね。えーと、スピルバーグ映画が言うところの夢見ることや体験に基づく思い出を糧にして人は生きて行くことは確かに出来るだろう。では、その思い出がこういう場合だったら?…(どういう場合かというのはR15ということで察して下さい。)ということなんですよね。だから、本質的にめちゃくちゃホラーでした。ボンクラ4人組のキャラクターと日常が丁寧に描かれれば描かれる程、ひとりひとりの心の闇が描写されて行くくだりとか、対峙する現実の狂いっぷりとか、胸キュンから現実の恐ろしさへの移行がほんとにスリリングで(「スタンド・バイ・ミー」の死体は青春そのものだったじゃんみたいのもありつつ)。青春と怖い話っていう2大夏要素が充満してる正しく夏映画だったと思います。

(あの、思わず自分の小6の頃の思い出を語ってしまいましたが、そういう思い出が全部ホラーに変換されてくみたいな映画なんですよね。)

https://summer84.net-broadway.com/

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