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屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ

はい、音声コンテンツの『映画雑談』の方でも取り上げてますが、あっちでは、「酷い」、「汚い」、「ヤバイ」くらいしか言ってないので、もうちょっと丁寧に書いてみようと思います。1970年代のドイツはハンブルグに実在した連続殺人鬼フリッツ・ホンカの犯罪の記録を映画化した『屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ』の感想です。

えーとですね、実在した殺人鬼の話と言うと、映画ではよくあるジャンルで、パッと思いつくだけでも『サイコ』、『悪魔のいけにえ』、『羊たちの沈黙』は同じエド・ゲインがモデルだし、ヘンリー・リー・ルーカスがモデルの『ヘンリー ある連続殺人鬼の記録』とか、デヴィッド・フィンチャー監督の『ゾディアック』は未解決の殺人事件がベースで、未解決と言えばポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』もそうです。邦画でも、2時間で28人殺し(その後ふたり死亡し)た " 津山事件(津山30人殺し) " がベースになってる『丑三つの村』(古尾谷雅人がハチマキにロウソク2本差してるアレですね。)とか、最近だと " 埼玉愛犬家連続殺人事件 " をベースにした『冷たい熱帯魚』なんかもありました(はい、見事に全部好きな映画です。)。でですね、今回の『屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ』も言うなれば、この流れの映画ではあるんですけど、これまでの殺人鬼モノとは圧倒的に違う点がありまして。それが、主人公の殺人鬼フリッツ・ホンカが全く魅力的じゃないってことなんです。

あの、普通に考えたら殺人鬼を魅力的に描いたら倫理的にダメだろうと思いますし、恐らく各映画の監督たちも進んで魅力的に描こうとはしてないと思うんですね(あー、まぁ、『羊たちの沈黙』のレクター博士の場合は、FBI実習生のクラリスがその人間力に翻弄されるって話なので、頭脳明晰でクールで口が上手いという、かなり魅力的な人物として描かれてます。ただ、それも殺人鬼の人間性に魅了されるっていう意外性の話なので、本来魅力的な人間として描かれてないからこそのこれだと思うんです。)。ただ、なんですけど、人って想定外のことをするものに対して恐れを感じるじゃないですか。未知との遭遇みたいなことで、想定外は怖いわけですよ。で、"畏敬の念"て言葉がありますよね(これって「畏(おそ)れて尊う」って意味なんですけど。)。つまり、恐怖と尊敬というのは同じステージ上にあって両立するもので、自分たちの想像を超えたことをしてくる人物に対して恐れと共に魅力を感じてしまうというのは往々にしてあることなんです。でも、このフリッツ・ホンカに関してはそれがないんですよ。なぜなら、この人普通なんです。フリッツ・ホンカの行動パターンとか思考パターンて理解出来過ぎちゃってつまらないんです。

つまり、殺人鬼界初の俺たち目線のサイコパスと言いますか、徹底的に上から目線で語れる犯罪者と言いますか。人を殺すっていうちょっと常人では考えられないことをしてるのに全く " 畏れ " を感じないんですね。じゃあ、それは共感てことなのかと言うとそれも違くて。この人、ダメさの度を超してるんですね。ナンパする相手は太ったアル中の老娼婦だし、その老娼婦に言うこと聞かせる為に暴力を振るうんだけど、そんな相手にも反撃されるくらいケンカ弱いし、作る料理は不味そうだし、部屋は汚いし、トイレなんか最悪の汚さだし、挙げ句の果てに殺す動機も殺し方もその後の処理もとにかく雑でだらしない。下手に理解出来る分、そのどうしようもなさに辟易としてしまうんです。で、それらの根底にあるのが一体何なのかっていうと圧倒的な"自己肯定感の無さ"なんですよ(自分と殺人鬼が繋がっているという感覚を享受させられた上に、その根本にあるものがこれなんだって思うと、ほんとに嫌な気分になるんですよね。)。で、映画はそれを淡々と何の脚色もなくただ描写するんです。だから、これが理解不能なところに振り切っていく未知なるものであれば"畏敬の念"を持ってファンタジーとして消化出来るんですけど、それもさせてくれないのがこの『屋根裏の殺人鬼』なんです。

で、それがこの映画をホラーでもサスペンスでもドキュメンタリーでもない不思議なものにしてると思うんですけど、じつは、この徹底的にだらしなくて不潔で下品なものを延々見せられるって経験、以前にも映画でしたなと思ったんです。アレクセイ・ゲルマン監督の『神々のたそがれ』っていうSF映画なんですけど(これもロシア映画です。)。これがどういう話かというと、地球から800年遅れた進化をしている惑星があって、その惑星の調査の為に地球から学者が派遣されるんですね。で、その学者は進化した科学や知識によってその惑星の住人から神と崇められる様になるんですけど、その惑星では今正に知識人を迫害するっていう内戦が起こっている最中で。泥にまみれた知識人たちの死体がそこらじゅうに転がり、挨拶代わりにツバを吐きあうっていう下品な風習なんかも相まって、映画内で起こっていることが一体何なのか全く分からないほどのカオス状態なんです。そういう泥と死体と汚物の臭いが漂ってきそうな描写が延々と続く映画なんですけど、見終わった時に不思議な達成感と興奮があるんですよ。そのカオスと興奮と見終わった時の開放感がこの映画ととても似てるなと思ったんです。タイトルにもなっている通り『神々のたそがれ』は、神と崇められる学者のどうしようもなさというか黄昏を描いているんですが、この黄昏る感じって、正に『屋根裏の殺人鬼』を観ている時の僕ら観客の心情であり、フリッツ・ホンカを始めとするこの映画に出て来る全ての登場人物の心情でもあると思うんです。神と崇められた人物と、最悪のダメ殺人鬼が同じ心情を持つ者として描かれているのが面白いですよね。

『神々のたそがれ』も『屋根裏の殺人鬼』も全く物語に対する説明がないんですけど(物語自体がないというか。)、だからこそ、嫌悪とか負の感情がダイレクトに入って来るんですよね。人物のバックボーンやそこに至るまでの流れを知らないと人間、純粋な気持ちで他人を嫌悪出来るんもんなんだなと思って(そして、それって意外と快感。)。あの、例えば、『ジョーカー』を観た時に感じた同情とか悲哀とか、もしかしたら、ちょっとした憧れなんかっていうのは、ジョーカーが事を起こすまでのドラマを知っているからで、それは映画ゆえのファンタジーなんですよ。それをこの映画や『神々のたそがれ』を観てると感じるんです。殺人鬼だろうが、神様だろうが、そこにドラマが読み取れないと死体とか汚物とか、醜い容姿みたいな自分たちの常識から理解出来る範疇の情報だけで善悪を判断してしまうんだなって。ちょっとビックリするんですけど、殺人という行為そのものには(その動機が描かれないと)それ程の嫌悪感は感じないんですよ。それよりも、醜くくて汚いもの同士が絡み合ってわめいてることに対しての嫌悪感の方が強いんです。要するに、受け取るこちら側の勝手な判断だけで神様にも殺人鬼にもなり得るというね。憧れるのも嫌悪するのもこちらがどの立場にいるか次第。ほんとはどっちも黄昏ちゃってるダメ人間なんですけどね。冷静に考えると恐ろしいですけど、こういう「人間て…」っていう感情に触れられるのも映画の醍醐味でもあるんですよね。

あ、だから、フリッツ・ホンカを演じたヨス・ダスラーさんが、じつはめちゃくちゃイケメンの若干22歳の俳優さんだったっていうのが、この映画に残された唯一のファンタジーなんだと思うんです。なぜなら、映画観終わった後にヨス・ダスラーさんのほんとの姿を知ると少し救われた気分になるんですよ。これも恐ろしいけど人の感情の正直なところだと思うんです。

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