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ウイーアーリトルゾンビーズ

両親を亡くした4人の少年少女が失った感情を取り戻す為に冒険の旅に出る物語…(ま、そう言えばそうなんですけど、)。というより個人的には、思春期の少年たちが大人の社会を覗き見て絶望の果ての自由を手に入れる話だと思いました。「そうして私たちはプールに金魚を、」がサンダンス映画祭ショートフィルム部門でグランプリを受賞した長久允監督の長編デビュー作「ウイーアーリトルゾンビーズ」の感想です。

この映画を観た日、じつはその前にラース・フォン・トリアーの「ハウス・ジャック・ビルト」(「ハウス・ジャック・ビルト」の感想)を観ていて(こっちは12年間で60人以上を殺した連続殺人鬼をマット・ディロンが演じる超トラウマ映画です。R18)、続けて「ウイーアーリトルゾンビーズ」も観ることになったので、そのあまりにもな振り幅に精神崩壊するんじゃないかと思ったんですが、大丈夫でした。なぜなら、どちらも " 死に囚われながらもそれを出来る限り客観視しようとする青春映画 ” だったから(つまり、同じことを描いてる映画だと思いました。)なんですが(よく見たら「リトルゾンビーズ」もR12なんですね。むしろ12歳くらいの子供達に最も観てもらいたいですが。)、あの、死を一番意識する頃なんじゃないかと思うんですよね、この映画の子達くらいの年齢って。うーんと、とりあえず何となく13年くらい生きて来てしまったけど、ふと、自分はいつまで生きるんだろうかとか、家族の誰かが死んだらどうしようとか、自分が死んだ場合、この世界はどうなってしまうんだろうかみたいなことを、夜寝る前にもんもんと考えるのが13歳くらいだったかなと思うんです。どこかで死をリアルに感じていたというか。あの、で、まぁ、こういうのが思春期の始まりだったんじゃないかと思うんですけど、そこから始まって年を取るごとにどんどん死の恐怖からは離れて行くわけですね(実際の死には近付いて行ってるんですけどね。恐怖は薄れて行くという。人間て良く出来てます。)。だから、死を扱うんだったら、死に対して一番センシティブなこの時期を描くのが一番リアルなんだと思いますし、実際、死を描いた青春映画で傑作と言われるものも多いんです。

例えば、(恐らく長久監督も好きであろう)相米慎二監督の「台風クラブ」とか、金子修介監督の「1999年の夏休み」とか、台湾映画の「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」もそうだし、フランシス・コッポラの「アウトサイダー」も、娘のソフィア・コッポラの「バージン・スーサイズ」も。例えば、死を直接描いてなくても「桜の園」とか、この位の少年少女を描いたものにはなぜか強烈に死の臭いを感じさせるものが多いんですね(変化球のやつだと「ぼくのエリ 200才の少女」なんかもそうですね。まぁ、これは死なないっていうことで死を感じさせる映画でしたけど。あと、楳図かずお先生の「わたしは慎吾」もですね。映画じゃないですけど。)。で、その中で僕が一番最初に、そして、最も強烈に死を意識させられた映画が「スタンド・バイ・ミー」だったんです。「スタンド・バイ・ミー」って、仲良し4人組がひと夏の冒険をしてちょっと大人に成長するっていう、この手の映画では王道な話なんですけど、少年たちが冒険に出る理由って、同い年の男の子の礫死体を探しに行く為なんですね。森の奥で列車に轢かれた男の子の死体が置き去りにされてるって噂を聞いて探しに行こうってことになるんです。最初は死体を見つけて有名になりたいって気持ちで行くんですけど、実際に死体を目の前にしたら、その物質としてのリアルさに圧倒されてしまって、とても、それを自分たちが有名になるネタに使おうなんて思えなくなるんです。あの、僕がなぜ死の描き方として「スタンド・バイ・ミー」が最も印象に残ってるのかというと、他の映画での死の描き方ってみんな観念的なんですよね(思春期の少年たちにとっての理想的な死を描いているからだと思うんですけど。)。だけど、「スタンド・バイ・ミー」で描かれる死は、ロマンチックでもないし観念的でもないんです(さすがスティーブン・キング原作。)。死体は単なる腐った肉としてそこら辺に転がっているし、そこから何も想起するものなんてないんです。何日か前まで自分たちと同じ様に遊んでいた少年が今は単なる物質になってしまっていることが、自分もいつこの少年と同じ様になってもおかしくないっていう強烈な刷り込みになるんです。「え、死ぬってこういうことなの?じゃあ、生きるって何なの?」っていう(僕は実際、「スタンド・バイ・ミー」をハートウォーミングなジュブナイル物だと思って観てて、突然このシーンが遭遇したので正しくそういう気持ちだったんですけどね。)。要するに " 虚無 " っていう概念に初めて触れたんだと思うんですよね(「台風クラブ」の恭一の死も周りから見たら " 虚無 " ですが、あれは死ぬことで本人が満足しているからエモいんです。つまり、リトルゾンビーズ的に言えば「古っ!」ってことなんですよ。)。

で、この「ウィーアーリトルゾンビーズ」も死を単なる状態として描いていて、主人公のヒカリたちは " 虚無 " を経験してるんだと思うんです。で、そこからこの物語は始まるんですよね(だから、「スタンド・バイ・ミー」の少年たちが死体を発見した、そこから後を描く様な話だと思うんです。)。圧倒的な死を知ってしまった僕たちはこの先どうやって生きて行ったら良いのかっていう。あの、この文章の最初の方で、「ハウス・ジャック・ビルト」と「ウィーアーリトルゾンビーズ」は同じ話だと書きましたが(不謹慎ということに挑戦的だったり、フィルムカメラとか、死からインスパイアされたものを芸術に変換してたりとか、いろいろ共通点はあるんですが)、最も似てるなと思ったところは、どちらも死を客観視させることでアイデンティティーを確立させようとしてるところで(つまり、どちらも主人公がアイデンティティーを探す話なんですね。「ハウス・ジャック・ビルト」はそれが最悪な方向へ行き着いてしまったというだけで。)。で、そのアイデンティティーを確立する為にジャックは殺人を、ヒカリたちはバンドをやるって話なんだと思うんです。どっちの映画も、最初に死と直面した瞬間から、段々とそれは何なのかっていうのを見極めて行く(つまり、死を知った自分が何をやろうとしているのかということに近付いて行く)物語になっていて、その道行きをちょっと離れたところから傍観する様な構図になっているんですよね(なので、両方ともドキュメンタリー的でもあり、寓話的でもあるんです。)。ただ、時々、" 虚無 " と向き合っている登場人物たちにちょっかいを出すんですよね。映画が。「今、言ったことはお前の本心か?」って(「ハウス・ジャック・ビルト」の方はそれがことごとく本心だから怖いんですけど。)。

(じつは、僕が「ウィーアーリトルゾンビーズ」で一番面白いと思ったところがここなんですけど、)これって、監督が映画に感じてる距離感なんじゃないかと思うんですよ(だから、「お前の本心か?」というのは監督が自分自身に言ってる様に聞こえるんです。)。長久監督のモンタージュの様な編集や、ギミックバリバリの映像処理は映画を壊してる様にも見えるんですけど、好き過ぎてまともに対峙出来ないっていうことなんじゃないかと。その距離感に映画への(歪んだ)愛を感じるんです。で、それがリトルゾンビーズの4人の両親(の死)に対する距離感に(歪んだ愛として)反映されているんじゃないかと思うんですね。そして、その距離を考えて見極めて行くっていうのがこの映画のストーリーなんだと思うんです。登場人物が誰も本心を言わないので分かりづらいんですけど、こうやって長久監督の映画への向き合い方と比較して見るとじつは凄くグッと来る話なんですよね(子供たちが世界に戦いを挑む話だと思ってたら、愛を求めて旅をする話に見えて来るので途端にエモくなるんですけどね。この映画の中でやたらエモいことを嫌悪しているのはそれの裏返しかなと。)。終盤のヒカリの両親が産まれて来た赤ちゃんに名前をつけるシーン(ここも両親が世の中の見方間違ってるんですけどね。間違ってても愛は伝わるっていうシーンです。)に、やっぱりグッと来ちゃうのは映画が世界をそうやって見てるからだと思うんですよね。

映画の中で菊地成孔さんがリトルゾンビーズを評して「今の時代、その人のプロファイルと創作物を切り離して見ることは難しい。」って言ってるんですけど、そういう作品の外にドラマを求めるメタな構造っていうのが、正しくこの映画そのものだし、この言葉によってリトルゾンビーズが今の時代に現れた必然の説明になってるので、この映画にとってもの凄く重要な言葉だと思うんですけど、大手広告代理店で仕事として映像を撮っていたという出自を持つ長久監督がこういう自分の好きばかりを詰め込んだ映画を作ったこと自体に意味があるんだと思うし、何と言っても、それが今の時代の正しさに対するアンチになっているというのがね。最高でした(エモいことも、絶望することも、ルールを守ることも、正しいフリも、じつはみんな大好きですからね。今の人たち。このアンチ部分に僕はかなり共感しました。)そして、(好きなものばかりで構成された世界を自ら切り捨てる様な)あの終わり方ですよね。

あの、自分ごとなんですが、僕は若い時から自分は考え過ぎるくらい考えてしまうところがあるなと思っていて。小さいことでも割と深く考えてしまうんですね。で、何でそんなに考えるのかということについて考えたことがあるんですけど。行き着いたのが、「本当のことを知りたい。」ってことだったんですね。例え、その結果自分が傷つくことになったとしても「本当のところはどうなのか知りたい」んです。で、じゃあ、本当って何だろうってなったら、それは「スタンド・バイ・ミー」の死の描き方だったんですよね。つまり、圧倒的事実ってことです(真実ではなくて事実)。でね、この映画が言ってるのもこれなんじゃないかと思ったんですよ。" 真実を求める前にまず事実と対峙しろ " っていう、そういう映画だったと思うんです。(あ、あと、重要なところ。リトルゾンビーズの曲が良かったのと、初ライブの時のお客さんの興奮と歓声がとてもリアルだったこと。これ、ここから何か始まるかもって気分がちゃんと描かれてました。)

20年来の音楽友達のボギーの息子さんのモンドくんが主演4人のうちのひとりとして出演してるんですが、モンドくん素晴らしかったですね。ああいう冷めた(それでいてその奥には純粋さがある)目のあのくらいの年齢の子がいなかったら成立しなかった話だと思いますし。イクコ役の中島セナさんの冷めた目も素晴らしかったです。長久監督冷めた目の女の子見つけてくるのうまいですね。前作の「そうして私たちはプールに金魚を、」のあかね役の子も冷めた目をした美人でした。(「そうして私たちはプールに金魚を、」凄く良かったので、ネットで全編観られるので観てない人は是非。正直、ギミックの入れ方はこっちの作品の方が合ってたかなと思いました。)

https://littlezombies.jp/

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