mid90s
90年代半ばのL.Aを舞台に13歳のスティーヴィーの日常を、当時のストリート・カルチャーであるスケボーやHIP HOP、オルタナティブ・ミュージックなどと共に描く青春ムービー『mid90s』の感想です。
はい、というわけで、何回か前に感想書いた『はちどり』(テキストでの感想の他に音声ポッドキャスト版でもやりました。)は1994年の韓国の14歳の少女ウニを主人公にした青春映画でしたが、こちらは(恐らく)1995年のL.Aの13歳の少年が主人公で、時代と年代が近いということでなかなか見比べてみると面白いものがあるのですが(『はちどり』の感想でも言ってる様に)、やはり90年代の青春映画って全体的に不穏なんですよね。どうしてもシリアスで重い空気になってしまう。今回、それをより、というか、もう確信したって感じなんですが、それは、この映画の監督が俳優のジョナ・ヒルだからというのがあってですね。えー、では、ジョナ・ヒルがどういう人なのかっていう話をまずしますね。
最近だと、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のディカプリオの相手役や、『マネーボール』のブラピの相棒役で名脇役って感じの俳優さんなんですが、僕が最初に観たのは2007年公開の『スーパー・バッド 童貞ウォーズ』(というタイトルからも分かる通りの青春おバカコメディ。)で、高校の卒業パーティーで童貞を捨てるべく奮闘する3人組のひとり(あとふたりはマイケル・セラとクリストファー・ミン=プラッセ。)としてなんですが、僕はこの映画が大好きなんですね。だから、僕にとってジョナ・ヒルというのは、この映画に出て来たヘタレで気が小さいのにすぐに大きいことを言う(けど、ほんとは友達思いでイイ奴の)道程野郎のセスなんですよ。今だに。だから、そのセスが撮った映画ということで観ると、よりギャップを感じるってことになるわけなんです。つまり、本来ならば『スーパーバッド』に一緒に出てたセス・ローゲンが関わってる『グッドボーイズ』とか、実の妹が主演してる『ブックスマート』(観ましたが、この映画は正に女の子版『スーパーバッド』という感じで最高の映画でした。しかし、そっくりな兄妹ですね。)みたいな映画を撮るべきなんですよ(いや、べきってことはないですけど、それを期待しても仕方ないということです。)。
で、ただですね、『mid90s 』を経ることによって納得出来るジョナ・ヒルのコメディアンとしての資質の部分というのもあって。僕、ジョン・ベルーシ(『アニマルハウス』とか『ブルース・ブラザース』のあの人ですね。)が好きなんですが、『スーパーバッド』でジョナ・ヒルを最初に観た時に「ジョン・ベルーシ」っぽいなと思ったんです。まぁ、多くはその風貌とそこはかとないアナーキーさと言いますか、我が道を行く感じのところなんですけど。『スーパーバッド』のラストでもの凄く切なくなるシーンがあってですね。特に何か別れがあったりとか具体的に失うものがあるってわけじゃないのに、昨日と今日で確実に何かが変わってしまったっていう思春期の中の一日ってあるじゃないですか。そういう切なさを秘めたシーンなんですけど、ここのジョナ・ヒルがめちゃくちゃいいんですよ。で、その切なさって僕がジョン・ベルーシに感じてた切なさと一緒だなと思って。ジョン・ベルーシがドラッグの過剰摂取で亡くなったのは有名な話ですけど、私生活はかなりハードで孤独な人だったんですね(僕、昔映画館でジョン・ベルーシの伝記映画的な『ベルーシ ブルースの消えた夜』っていうの観たんですけど、あれ、もう一度観たいんですけどどうもVHSしか出てないっぽいんですよね。)。で、その実生活から来る切なさっていうのがコメディアンとしてのジョン・ベルーシの魅力になってたというのはあると思っていて。『mid90s 』を観ると、僕がジョナ・ヒルにジョン・ベルーシと近いものを感じたのはこういう青春時代というか少年時代を経てきて、それを今でもこんなに鮮明に憶えているからなんだなと思ったんです。
ジョナ・ヒル本人は年齢からいっても主人公のスティーヴィーに一番反映されてると思うんですけど(スティーヴィーは母親とお兄ちゃんの3人暮らしなんですが、思春期特有の"ここではないどこかへ"衝動と言いますか、当時カウンター・カルチャーとして出て来たHIP HOPとかスケボーとかストリートファッションに興味津々なんです。)、そのスティーヴィーの視点から見た世界の狭さというか。L.Aの限定された街の物語なのでほんとに凄く狭い世界の話なんですけど(そのアンダーグラウンドな文化が当時日本の僕らのところにまで届いて来てたんだってことが、劇中の音楽やファッションで分かるのが良いんですよね。)、その中で、初めて踏み入れたスケボーショップの新鮮さとか、そこにたむろする不良たちのカッコ良さとか、ちょっと背伸びして見たらいつもの街が全然違う景色に見えるっていう、そういう誰にでもある思い出の中の風景みたいな。それが13歳の少年の狭い視点を通して描かれているんです。スティーヴィーにとっての世界の全ては本当は人生において一瞬立ち止まる場所でしかないみたいな(ただ、この映画の場合、その世界の見えてなさというのは大人も同じだったって描き方がされているんですね。スティーヴィーの母親がほぼ唯一の大人として出て来るんですけど、彼女の世界の見えてなさというか、閉塞した世界の中にいるような感じがとても90年代的だなと思うんです。)。そういう世界を永遠として描かずにあくまで人生の一部として描いてる感じが凄く良いんです(美化し過ぎてもないし、悲劇的過ぎもしないと言いますかね。)。90年代のストリートを描いてる映画ということで、ガス・ヴァン・サントが制作した『KIDS/キッズ』と比較されてるのをよく見るんですけど、個人的に一番思い出したのはフランシス・フォード・コッポラの『アウトサイダー』だったんですよね。
例えば、貧困層側にいる不良グループを描いてるとか、グループの中で最年少の少年が主人公とか、同じくらいの年の子ともっと年上の仲間との関係性の描き方とか、不良グループの中でもダメになってしまうヤツ(『アウトサイダー』ではマット・ディロンが演じてたダラスがその役でしたね。悲しい役でした。)を描いてるとか、兄との距離感を描いてるとか、あと、なんといっても、それを一定の距離を保った俯瞰的でクールな視点で描いてるのが似てるなと思ったんです。そして、ラストにちょっとした希望があるところも。『アウトサイダー』では、火事になった子供を救う為に全身に火傷を負ったジョニーがダラスに宛てた手紙で、『mid90s』では、毎日カメラを構えて仲間の日常を撮り続けていたフォースグレード(小4並み)の映像作品でそれが示されるんです(爆はこのシーケンスで放り出される様に終わった瞬間にこの映画が大好きなりました。)。現実の世界では毎日辛いことばかりが起こっている様に感じるし、実際、今も辛い状態にいるけど、フォースグレードがカメラを通して見ていた世界がどういうものだったのかという。『アウトサイダー』も『mid90s』も、映画が見せてきたのとは少し違う角度で世界を見てたキャラクターの視点で未来が示されるんですよね。更に『mid90s』では、クリエイティビティの中にこそその未来があるって描き方にもなっていて(ストリートっていうオルタナティブな視点のままそれが世界に発信されて行くというのが90年代的だと思うし、それこそが90年代的なものの中での唯一の希望だったんじゃないかと思うんです。)。フォースグレードが撮った映像というのがまるで(『マルコビッチの穴』や『her 世界でひとつの彼女』の監督の)スパイク・ジョーンズの撮っていた映像とそっくりなんですけど(スパイク・ジョーンズ本人がもともとこういうストリートカルチャーの中にいた人なんです。)、その人を彷彿とさせることで、今は辛い現実を映しているストリートからでも未来を提示することが出来るってメッセージになってるんだと思うんですよね(実際、90年代にストリートで生まれたカルチャーが00年代以降の世界のスタンダードになっていくわけですし。)。そして、それは映画を撮ることを夢見ていたジョナ・ヒル自身の現在にも繋がるんです。90年代アメリカ・オルタナティブ・カルチャーに同時代性を感じていた者としてはやはりそこはグッと来るわけなんです。
はい、まぁ、というわけで、出て来るキャラクターもみんな最高で(それぞれ”レイ”、”ファックシット”、”フォースグレイド”、”ルーベン”と呼び名も最高なんですが。あと、スティーヴィーのお兄ちゃん役で出ていたルーカス・ヘッジズくんが今回も最高でした。)、その実在感というか、90年代に入ってようやく同時代性を帯びてきたストリートカルチャーの(当時、日本からもオルタナティブな音楽などを通して感じていた)その場にいる様な気分と空気を味わえる、90年代というまだ総括されていない時代を描きながらも青春の普遍性までも感じられる様で、個人的にいつでも手の届くところにしまっておいて定期的に見直したくなる様な映画だったと思います(そして、もう驚きもしませんが、これがまたA24作品という。ね。)。
サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。