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ミスター・ガラス

えー、僕がまぁまぁなシャマラニスト(シャマラン映画至上主義者のことです。)だと言うことは、前作の「スプリット」の感想の時も書きましたが、今回、この映画を観て、自分は真性シャマラニストだったんだなと深く確信しました。今年まだ2本目ですが、今のところの本年度ベストと言うか、ちょっと心の一本になってしまったかもしれません。「アンブレイカブル」、「スプリット」から続く3部作の最後の1ピース、M・ナイト・シャマラン監督「ミスター・ガラス」の感想です。

ミスター・ガラスというのは、2000年に公開された「アンブレイカブル」に出て来たサミュエル・L・ジャクソン演じるイライジャというコミック・コレクターで、もの凄くIQが高くてめちゃくちゃ頭いいんですが、生まれつきちょっとしたことで骨折してしまう骨形成不全症という難病を患っている人なんですね(ガラスの様に脆い身体をしているということでミスター・ガラスなんですけど。)。ブルース・ウィリス演じるデヴィッド・ダンが列車事故からひとりだけ生還して来た時に、「お前は特殊能力を持つ人類を超えた存在なんだ。」ということを後押しする役なんですが、イライジャがなぜこんなお節介なことしてるのかというと、自分がガラスの様な脆い身体で生まれて来たのなら全く逆の超人的な肉体を持つ人間が必ずどこかにいるはずだと思い続けて来たからなんです。だから、ある意味このシリーズの大元を想像した人で、その人が今回の主役というわけなんです。では、監督はなぜミスター・ガラスを三部作の結末を飾る作品の主役にしたのかというと、イライジャは、シャマラン監督が「アンブレイカブル」から「ミスター・ガラス」までの19年間の中で言いたかったことを代弁してくれる様な存在だからだと思うんです。ていうか、正しく監督そのものだからですよね。

で、一方「アンブレイカブル」の17年後の2017年に公開された「スプリット」は、23の人格を持つ"群れ"と呼ばれる多重人格者をジェームズ・マカヴォイが演じる(この時は23人格のうちの6人格くらい演ってますが、今回は10何人演ってますかね。もしかしたら23人全部演ってるかもしれないですが数えてません。とにかくちゃんと狂気で凄いです。)映画なんですが、これは「アンブレイカブル」とは全く関係ないところで展開していくサイコ・スリラーなんですね。マカヴォイが演じる"群れ"はいわゆるリア充たちを誘拐して監禁している犯罪者なんですけど、ある時誘拐して来た女子高生のケーシーが"群れ"と対峙する中で"群れ"のもともとの人格"ケヴィン"(繊細で、それゆえに多重人格者となることで自己を守ってきた様な人格。)と心を通わせる様になるんです。ただ、それに反発するかの様に超人的な力を発揮する24番目の人格の"ビースト"が目覚めてしまうんですね。で、映画はラストで「アンブレイカブル」との繋がりを示して終わるんですけど、フィルモグラフィー的に言うと、「スプリット」の前の作品の「ヴィジット」がシャマランとしてはひさしぶりに評価の高い作品だったので(「ヴィジット」はアッパーなサイコ・ホラー・コメディだったんです。)、観客としては「スプリット」も「ヴィジット」の流れを汲んだ作品なんだろうと思ってたんです。そしたらむちゃくちゃ複雑なキャラクターを描いた上に最後「アンブレイカブル」のデヴィッド・ダンが登場するので(そりゃ、シャマラニストはアガりますけど、)前後関係を知らない観客はポカーンとなりますよね。しかも、「アンブレイカブル」から17年も経ってるわけなんで。

で、この二つの作品がいよいよ繋がるのが今回の「ミスター・ガラス」なんですけど、このシリーズをヒーロー映画と捉えて考えれば、一作目でヒーローが誕生して、二作目で悪役が誕生したわけなんで、完結編となる今作では、当然ヒーロー vs ヴィランという構図になり、どちらかが勝つことによって、この世界にヒーローが存在する意味だとか、ヴィランが登場しなければならなかった理由だとか、そもそも世界を創造したミスター・ガラスとは何者なのかっていうところに行き着くと思うんです。ただ、それはあくまでマーベルとかD.Cに即した世界線での話なんですよね。で、そうならないのがS.C.U(シャマラン・シネマティック・ユニバース)なんです。(まぁ、ここまで地味でやるせない話になるとは思ってませんでしたが。)

例えば、「ダーク・ナイト」とか「ウォッチメン」みたいなコミック・ヒーローを現実世界の住人としてリアルに描く場合、現実世界にヒーローという生物が存在するということは世界に認知されてるわけじゃないですか。で、一方「キック・アス」とか「スーパー!」の様な妄想アメコミ・ヒーロー・ビジランテ物の場合は、現実世界にはヒーローは存在しないということで物語世界が構築されてますよね。で、僕は「アンブレイカブル」はこの両方の先駆けみたいな映画でありながらこの両方よりも深いところを描いていると思っていて、それは"現実世界にヒーローが存在するかもしれない世界"ということなんです。つまり、「誰にも絶対にいないとは言えなくね?」ってことを言っていて、それを主張しているのがミスター・ガラスなんですね。ただ、まぁ、その他全ての人は(当のダンに至るまで)「現実的に考えたらいないんじゃないかな。」というスタンスを取っていて。ていうか、それこそが現実であり、それこそが世界ですよね。で、世界とのこの関係性こそがシャマラン監督が創作をする上で常に感じていたけど、監督特有のエンタメ性の裏に隠れて見え辛くなっていた、監督がもっとも言いたかったことだと思うんです。それで、タイトルが「ミスター・ガラス」ということは、今回はこの事を描きますよってことで。そうすると自ずと"世界vsミスター・ガラス"(つまり"世界 vs シャマラン")という構図になって、その上でヒーロー映画のお約束とか、みんなが思っていたシャマラン・ユニバースの世界とか、みんなが期待していたヒーロー対決とか、そういうのを全部吹っ飛ばして、ミスター・ガラスがこのことにどういう答えを出すのかっていう一点にストーリーが集約して行くんですね。(そこがほんとに素晴らしかったんです。)で、その中でシャマラン監督が言いたかったことは何なのかっていうと "自らの才能を諦めるな"ってことで。映画本編が終わって「この映画は何だったんだろう。」って考えながらエンドロール観てたら、このメッセージが浮かび上がって来て。「アンブレイカブル」って当時それほど評価されたわけでもない作品の続編を、19年掛けて、自分の土地を抵当に入れてまで作って、どうしても言いたかったことはこれなのかって思ったら、それはもう最高だなと思いました。

https://www.disney.co.jp/movie/mr-glass.html

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