狂人がやって来てある家族をそっちの世界へ誘う映画「淵に立つ」の深田晃司監督の最新作で、その「淵に立つ」で家族の母親役を演じていた筒井真理子さん(「淵に立つ」の筒井さんほんと凄かったですね。)を主演にした、えー、なんだこれは、サスペンス(かな?)映画「よこがお」の感想です。
「淵に立つ」大好きなんですよね(「淵に立つ」の感想)。なんていうか、日常の中の狂気(デヴッド・リンチとかミヒャエル・ハネケとか)みたいなのがもともと好きなので、ほんとにそれの最新版というか。ただ、「淵に立つ」は、その日常からの逸脱ぶりが凄くて(だから、どちらかと言うと「ノー・カントリー」とか「悪魔のいけにえ」とか、ああいうのに近かったんですけど。)。あの、深田監督って何気ない日常を描写するのもの凄い上手いじゃないですか。で、「淵に立つ」の時は、そこから逸脱させる為の装置として日常を描いているんだと思ってたんですね。けど、今回の映画観たら、なんか、それだけでも1本作れるんじゃないかっていうくらい、ほんとに好きで描いてるというか。ホームドラマとか、普通の家族物みたいなのも作れるんじゃないかなと思って。で、そうやって観てたら、今回の「よこがお」って、実際、最後までちゃんとホームドラマなんですよね(「淵に立つ」は途中からホラーになって行きましたけど。だから、今回のは逸脱してる様でしてないんですよ。そこが怖いんですが。)。「淵に立つ」の時は、(浅野忠信さん演じる)八坂ってヤバイやつがやって来て日常を壊していったんですけど、今回の「よこがお」では日常そのものがヤバイというか。何か(誰か)の事件に巻き込まれていくというよりも、そもそもの日常自体がヤバイものなんだと。(異論があって然るべきこと言いますけど)小津安二郎監督の映画って日常じゃないですか。でも、なんとなく奇妙じゃないですか(個人的には異常とも見えますけど。)。日常をそのまま描いてるけどなんか妙な不穏さがあるっていうか。だから、映画っていうフォーマットの中で特に何もない日常を描くと異様になるんだと思うんですよ。で、実際にはいろいろ事件が起こっているのに、その事件のどこにもフィックスしないで起こること全てを日常として描いてるのがこの「よこがお」なんだと思うんですね(小津映画をデヴィッド・リンチ的解釈で描いたみたいな。日常に潜む狂気を日常側から切り取ったみたいな。)。だから、あくまで描かれてるのは日常(なのに不穏)っていう怖さがあるんですよね。「淵に立つ」よりも自分たちの生活に近いんです(そう言えば、観てて、こういう具体的に何がとは言えないけど、日常の中の狂気に主人公が取り込まれて行く映画最近観たなと思ってたんですけど、アレでした。「アンダー・ザ・シルバー・レイク」。あの不安感とか不安定さ、主人公自体がそれに挑んで行く感じとか通じるとこありますね。)。
映画の最初は、筒井真理子さん演じる市子が、池松壮亮さん(この映画の池松さんめちゃくちゃいいですよ。ただ巻き込まれてるだけなのになんかやってる感ハンパないんですよ。)演じる米田の働く美容室にやって来るところから始まるんですけど、この最初のふたりのやりとりがほんとにめちゃくちゃいいんです。何気ない美容師と客のやりとりなんですけど、その中に日常に感じる不穏さとか、人と人が関わる気持ち悪さとか、期待とか、不安とか、怖さとか、そういうのが全部入っていて(だから、この最初のシーンで、この映画が言おうとしてることほとんど全て言っちゃってるんですよね。で、それが何なのかっていうのを読み解いて行くサンペンスになっていくわけなんです。)、そう感じるのはなぜかと思っていたんですけど、じつはこの冒頭のシーンて、映画のオープニングではあるんですけど物語の最初ではないんですね。つまり、時間軸がシャッフルされていて物語のある部分から映画が始まっているんです。たぶんこの映画、普通の時間軸でストーリーを追ったらかなり分かりやすくてエモい話なんですね。例えばハートウォーミングな家族物にも、犯罪に巻き込まれた女性の人生譚にもなり得そうなくらい(誰にでもあるってことではないんですけど)共感出来そうな話なんです。では、なぜそんな分かりにくくしてまで時間軸をいじってるのかというと、恐らく共感も同情もさせない為じゃないかと思うんですよね。つまり、監督はこの映画からドラマ性を排除しようとしてるんじゃないかと思ったんです。
あの(これは後から分かることなんですけど)、この冒頭のシーンて主人公の市子があることを決意して行動に移した最初のシーンなんですね。つまり、ちゃんと時間軸に沿ってストーリーを追えば、ここから映画が動き出す様な、ほんとに映画のキーになる(例えば、市子に感情移入させて観客を味方につけることも、逆に市子に不信感を持たせることも出来る)シーンなんです。つまり、ここから市子が明確に変わるってシーンなんです。それをこの映画では冒頭のほんとに何でもない日常を描くシーンとして使っていて、しかも、その後エピソードがシャッフルされて出て来るので、そうすることで(これがドラマ性を排除してるってことだと思うんですけど)何が残るのかというと、登場人物に対する不信感なんですね。恐らく、ストーリーを紡いでいくことで、そこにどうしても入ってしまう監督の意図とか思い入れとか、観客の登場人物への共感とか感情移入とか、そういうのをあえて伝わりづらくしてるんだと思うんですよ。で、そうすると(ここが深田監督の映画がホラー映画的になる所以だと思うんですけど)、登場人物たちが何を考えて行動したり意思決定してるのか分からなくなるんですよね。だから、映画を観てる僕らは、登場人物がした行動に対して「恐らくこういう考えでこうしてるんだろう。」っていう想像をするしかないんですね。で、そう思って観てると(そういうこっちの考えを察したかの様に)突然筒井さんが犬になったり(「何言ってんだ。」とお思いでしょうがそうなんです。めちゃくちゃ好きなシーンでしたけど。)するので、その頭の中で積み上げたストーリーと登場人物への理解が、また、ぶち壊されるなんてことになるわけなんです。
だから、こうやって書くと「分からないこと(謎ではない)だらけだし意地悪だし、なにが面白いの?」と思われるかもしれません(まぁ、意地悪されることはそれほど嫌いではないという個人的性癖もあるかもしれません)が、結局、映画を観終わると分からないところって何もないんですよね。なぜなら、この映画って、映画内で起こった"事実"をただ淡々と描写しているだけ(要するにさっき書いた監督の意図とか登場人物への思い入れとか、こういう物語として観て欲しいみたいなことが全部排除されている)なので、映画の画面で見たことが全てなんですよ。「こういうことがありました。はい、終わり。」って感じです(だから、観終わった時凄くすっきりするんですね。内容的には全然すっきりしない話なんですけど、市子たちがこう決めてこういう結果になったのなら、まぁ、いいんじゃないかなって感じで。)。しかもそれって、よくあるラストの解釈は観た人それぞれに委ねます的なことじゃなくて、結果は非情なほど明白に出てしまっているんです。その非情さが気持ちいいなみたいな。こういうカタルシスの在り方もあるのかって。あのラストのクラクションは叫べない市子の心の叫びだと思うんですけど、たとえ代替の(そして敗北の)叫びだったとしても、あそこで叫べたことに観てる方としてはカタルシスを感じるんですよね。あ、で、筒井さんと池松さんの他に、もうひとり超重要人物として市川実日子さんが基子って役で登場するんですが、この市川さんが何の役どころなのかっていうのがですね、結構、重要かなと思っています。個人的にはこの話って、市子が悪魔に魂を売るまでの話だと思うんですよね。だから、ラストのあの市子の表情は「クソ、やられた…。」ってことなんじゃないかなぁと。あくまで個人的な妄想ですが。だから、それを、やっぱり日常から抜け出せないって話にしてるのが凄いなと思うんですよね(日常から逸脱出来ないっていう恐怖を描いてる話なんだと思います。「淵に立つ」は逸脱するって話でしたけど。)。
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