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なぜ学ぶのか〜エストニア大学院生の経験から〜

とうとう一桁台の気温になった秋めく季節のエストニアです。部屋はあったかいからまだ大丈夫。まだ外を自信持って歩けるから大丈夫。まだ降っていないから大丈夫。まだ行ける、まだ行ける。そういう気持ちで頑張っています。

ーーーーーなぜ人は学ぶのか。
最近この大いなる問いについてふと考える。同志の大学院生のみなさまはどうなんだろう。大学院は学ぶ場所ではない、研究をする場所だ。と良く言うけれど、自分はまだまだ「学び」をやっている。インプットばかりの毎日。最近ちょっぴり授業が楽しくなった、質問をするようになった、そのくらいの「レベル」。

そんな自分がなぜ学ぶのか。


たーにんぐぽいんと1:小学生の体験
「学ぶことは楽しい」

「職業人に学ぶ会」で出会った大学の教授との出会いは大きな影響を与えた。その会は小学生が所謂社会人の方々にお話を伺う会だったように記憶する。恥ずかしながら、内容はほとんど覚えていないけど、当時の担任の先生の影響で歴史が好きだった、それだけの理由で、その考古学大学教授のお話を聞くことを希望した。あとは、多分母の影響で「良い大学に行けば良い仕事に就ける」といった呪文をかけられていたので、その方のご所属を知ったことも経緯としてあることは否めない。(後々その大学のオープンキャンパスに行くことになるし、最後までその大学に入ることを諦めなかった)のちに感想文を書いて、それぞれの講演してくださった社会人の方にお礼をするんだけど、同級生がその教授からの直筆のメッセージと著書本をもらっていて「なんで!!」と思ったことを今でも忘れない。自分だって自分だって!!とても刺激を受けたって書いたのに、、子供ながらにショックだったことを鮮明に覚えてる。でもそれ以上に覚えていることは、「学問は楽しい」ということだった。中学校はテストがあり、勉強ばかりで大変だと脅しを喰らっていたけど、一方で「学ぶことは楽しいんだ」と気づかせてもらった瞬間だった。(いつか、その教授に海外まで行って学問をやりました。と言いたい)

たーにんぐぽいんと2:大学のゼミ合宿
「問い詰めたい」

飛騨の家具は、99%が外材である。

ゼミで訪れた学会で、当時職員の方が言ってくださったこの言葉に私の人生は狂わされたと言っても過言ではない笑 なぜだろう。ネットで知って満足したくない。物事の本質を見たい。物事の表面だけを見て、全て知った気になりたくない。そのことばかりが自分の頭の中にあった。

自分自身の身体でさ、実際にやったことと、その中で感じたこと考えたこと、
自分の責任で話せるのってそのぐらいだろ?
そういうことのをたくさん持っている人を尊敬するし、信用もする

何にもしたことも無いくせに、何でも知ってるつもりで
他人がつくったものを
右から左へ移してる奴ら程威張ってる
薄っぺらな人間の空っぽな言葉を聞かされるのもうんざりした

他人に殺させておいて
殺し方に文句つける様な

そんな人生は送りたくないなと思ったよ

リトルフォレスト夏秋

リトルフォレストっていう大好きな自分にとってバイブルのような映画にも出会った。
たくさん本を読んで、たくさんの人と喋った。本質を知るってなんだろう。ずっと考えている。

たーにんぐぽいんと3:コロナ禍
「学びがつながった瞬間が楽しい」

忘れそうになるのだが、コロナが日本で大流行し始めてからすでに4年を過ぎている。あの時の感覚を思い出すと、全てが流動的で、人も情報も自分の中を駆け巡った時期だった。あのころ、本当に学びが捗った。毎日が新しくて、毎日学びが尽きなくてキラキラしていたと思う。いろんな人と話して、さまざまな分野が繋がる瞬間が本当に楽しくて、アドレナリン出まくっていた時期笑

「研究の畑に行くんですか?」「Sayaさんなら大丈夫ですよ。」今まであった根拠のない自信を裏付けてくれるような尊敬する方からの言葉が、学びを加速させた。

そしてここ1年。
「」


自分が子どもだった頃にお年を召していた方々が旅立たれ、世代が交代していくその流れと、
尊敬する大学の教授らが必死に論文を書いている姿から、
エストニアという国で自然と近い暮らしをしていて、厳しい寒さに歯を食いしばる時や逆に自然に恩恵を受ける生活をしていることから、

※まだまだ自分をお世話することで精一杯である目の前の前提は捨てきれないものの、

今後の世代のためにも社会に自分に何ができるのか考えるようになった。社会に貢献すること=自分の幸せ とは少し違っていて、なぜやるかは後で考えるとにかくやる。そうしない選択肢はない気がするからやる。でしかない。(そう言う性格なんだなとも思う。)
森林は自分が恩恵を受けているecosystemが全て詰め込まれているとこれまでのところ理解していて、さてじゃあ自分は何をするかどう生きていくか、ってことを考えている。しっかり考えないと行けないな。頑張ることは当たり前で、何ができるのか考えに考え尽くさないと行けない。楽しいけどつらい。

つまり今の自分にとって「学ぶこと」は、楽しくもあるけど時につらい、でもやるべきことである使命のようなもの。

え、でも待って。普通に何も考えずにゲームをすることだって好きだし、カフェ巡りも好きな人間なんだけど。。本当に今定義した「学ぶこと」が自分にとっての「学ぶこと」であったら、そんなこと本当にやっている場合じゃない。下北沢でカレー巡りして、古着を買っている未来もあったのかな考えたり、あー今頃社会人してたら2年目か、、なども普通に思っていた。一方で、森林インベントリデータをガシガシ分析するデータアナリストになってやる!と入学前は、いや大学院1年目は本当に思っていたのだ。このような感じで、たかだかと掲げた理想とは反して現実とのギャップに苛まれてたくさん落ち込んだ。完全に世の中を舐めきっていた。
できることとやりたいことの境目が明白なはずなのに、バイアスやプライドが邪魔して考えられなくなった。でもようやく少しずつ動き出せている気がする。

未来に向かって



エストニアは「森林の戦争」が数年前から勃発している。簡単に言うと政治とアカデミアと住民の森林に関わるコンフリクトだ。それぞれの分野が衝突しあって、それぞれが欲しい情報が搾取され、カオスな状況になっている。

学部では経済学ゼミだった自分、環境保護NGOでインターンしていた自分、そして今森林を学んでいる自分。エストニアでの私の役割はどこ?過去の自分が今の自分に託してくれたメッセージを見失わないように、何ができるのか必死に思考している。

これまでのターニングポイント全て、つながっている。本当の意味での「矛盾を保ち続ける」ってこういうことだったんだね!って言いたい人がいる。
「ジブンゴトだけではない、学びの追求」が今の自分のテーマである、



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