「モラハラされたら托卵してもいい?」男女というメビウスの輪
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近頃界隈を騒がせているフジテレビ系ドラマ「わたしの宝物」をご存知だろうか。内容は公式サイトでも閲覧すれば良いのでざっくり説明すると、
ある夫婦が存在しており、子供はいない。妻が夫以外の男性と性行為をして結果的にその男性の子供を妊娠した。その子供を夫の子であると偽って育てる。妻は専業主婦なのでもちろん夫が働いたお金で。
という話である。
なんでこれがわからん!
実際のところ必要な情報は上記だけであり、無駄な詳細さは不要だ。さて、順当に判断して責を負うべきは誰だろうか?
当然妻である。人並みの判断力があれば誰にでも理解できることだ。
ここで聞こえてきそうなのは「夫はモラハラ男だった」という声であるが、それを衡量したとして妻の行為と釣り合うだろうか?
モラハラとはモラルハラスメントの略であり、一般に精神的な虐待と捉えられる。ただし、昨今のハラスメントの例に漏れず、ワガママを諌めることもモラハラだとされたり、思い通りならない相手をモラハラだと認定する場合も少なくない。だがここは実際の意味においてのモラハラだと考えてみよう。「高圧的な態度」「自分の意見の押し付け」「相手の意見の否定」「暴言、イヤミ」などだ。残念ながら世の男性の多くが「モラハラ」に対して何を思うかと言えば「甘えるな」である。その理由は恐らく、その程度のことは人生でいくらでも経験しており、いちいち自分を被害者だと哀れんでいたら周囲からバカにされるし友人もいなくなる上に敬意も持たれなくなるから、だろう。
だがしかし、一旦それは置いておこう。
夫から精神的な虐待を受けていれば妻は間男の子供を妊娠し、夫の子と偽って夫のお金で養育しても仕方がないのだろうか?
愚問だと思う。普通の知能があれば妻の方が悪であると判断するであろう。よって男性側の反応としては題名をもじって「わたしの宝物」ではなく「わたしが宝物」などと呼ばれたりしている。また「悪女になることを決意した」というような表現に対しての不快感など、多く男性に生理的な嫌悪感を催させている。
さて、このような行為を「托卵」と呼ぶわけであるが、厳密には状況が異なる。この問題には一部男女の意見の対立が存在しており、托卵をめぐる賛否について男女を同じ土俵に立たせる必要がある。よってまず、通常の托卵について説明しなくてはならない。
本来托卵とはカッコウの親鳥が行うものを多く指す。ではその実態はというと、
他の親鳥にカッコウが自分の雛を育てさせる
というものだ。通常、托卵される巣の雛は殺されてしまっている。
これを人間で置き換えるなら、
「ある夫婦の赤子を、その夫婦の目を盗んで殺して自分の赤子と入れ替え、それと知らぬその夫婦に養育させる」
というものである。まるで「八日目の蝉」の1シーンを想起させるような場面であるが、はるかに悪質な行為だ。
実際問題、男女において托卵の賛否が対立するのは女性側にとっては自分の子供であるからだ。此度挙げたような状況でも賛成するか問われた場合は恐らく答えを変えるだろう。
ちなみにこの例でもかなり状況は緩和されており、誤用としてのミラーリングを用いるなら、
「妻が働き、夫は専業主夫である。妻は卵子に問題は無いが出産は難しい身体であった。よって人工授精と代理母によって子供を得たとする。しかし、その子供の人工授精に妻の卵子は使用されておらず、夫の精子と夫の浮気相手の卵子から生まれた子供だったとする。妻はそれと知らずに自分と夫の子であると思って養育している」
という状況の場合、方法論はともかく実態はほぼドラマと同じである。これに対する女性は意見はどうだろうか?
一般的ないわゆる托卵家庭とほぼ同じだと思うのだが、納得できるのだろうか。仮にこの家庭の妻が夫に対してモラハラやDVを行っていたとしたら夫の行為に共感できるのだろうか。
ここまで言えば極めて悪質な犯罪であると理解できるのではないか。
もしかすると抜けているかもしれない視点なので一応言っておくが、一人息子が托卵された場合、その息子の母親の遺伝子の旅は「お疲れ様」ということになるのだがそれで良いのだろうか。息子の嫁が間男の子を産んでいる時点で女性にも被害が生じていることにまさか気付いていないとは思えないが。
この設問において代理母を用いた理由は少し勘の良い方ならお分かりだと思うが、いつもの万能言い訳でテーブルをひっくり返されるのが嫌だったからだ。
これはナンセンスだ
よく「男性の年収と女性の若さは等価交換」という意見を聞くがこれは間違いである。年収とは相対的なものであり、そもそも全ての人間が高収入になることは原理的に不可能だ。高低、多寡は比較の対象が存在することで意味を持つ。水が高所から低所に流れるように、地面に立つことが出来るように、年収には位置が存在することで高低の分布が可能となり、全てが最も高くなれば「坂」は存在せず「平坦」となる。
本来であればこのような説明は不要なのだろうが、アインシュタインは「お子様にも説明できて初めて理解したと言える」と言ったらしいので、やってみよう。
全ての国民の年収が5000万円になった場合、当然であるが5000万円の価値は恐らく現在の3〜400万円の価値と同等になるだろう。コンビニの天然水2ℓで2000円といったところで物価も落ち着くと考えられる。5000万円は大金であり、年収5000万円は文句なしの高所得であるが、皆がその高所得になれば実質的に中流層となる。
今のは現実社会での話だが、一度時代をまたいでみよう。過去を遡れば現在の低所得層は昔の高所得層よりも質の高い家に住み、質の高い衣服を身につけ、質の高い食事をしており、電気もガスも水道も利用できる。知れば昔の貴族が羨むような生活をしているだろう。
必需品と贅沢品の選り分けさえ可能であれば生活に満足することは容易い。
誤解を恐れずに言えば、衣食住が整った生活を治安の良い環境で営むことができるだけで上等なのである。
それ以上を望むの浅ましい強欲さではないだろうか。
つまり何が言いたいかと言うと、日本人の生活は広い幅で見れば低所得でも非常に豊かな生活をしている、ということと、全員が高所得になれば高所得は存在しなくなるということである。
そして高所得の仕事は基本的に多大な努力を必要とし、さらにその職を得るためには運の良さが必要である。一部おかしなお金の流れや資本主義の失敗とも言えるような分配エラーも存在するが、それでも多くの場合は資質、努力、運のいずれか或いは複数が必要となり、その枠はごくごく限られた人間にしか渡らない。
では女性の若さはどうだろうか?
女性という生き物はまるで「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」の主人公のように老いた状態でこの世に生を受けるのだろうか。そしてその中の選ばれた者のみが「若さ」を手に入れることができるのだろうか。資質、努力、運、どれも「若さ」を得るために必要なものではない。早老症という病気があるので辛うじて「運」はあるかもしれないが。これは純潔ですら同じである。もったいぶらずに言えば、どちらも生まれつき持っているものだ。
男性は生まれつき高所得ではない。そして仮に高所得になりたくともその枠は限られている。更に、なったとしてもそれを維持するには責任感や労力が必要となる。
「女性は永遠に歳をとらない」などと考えている男性はいないだろう。女性の若さは維持できないという前提で男性は女性を見ている。では男性に高所得を求める女性は同じように見ているだろうか。
結論、男性の年収と女性の若さが等価交換なはずがない。一部の限られた人間しか持ち得ないものが、誰でも持ち得るものと等価であるなどとどうすれば考えることができるのか不思議でならない。
実際に等価なものは何かと言えば、庇護であろう。庇護とは「他の全ての女性よりも全てのことにおいて優先する」というものである。そこに年収などは関係ない。女性の若さと等価交換なのは男性からの庇護である。
貴様らの頑張り過ぎだ
結局のところ男女の感覚は異なり過ぎた。例えば貞操観念においてどの文化圏でもほとんどの男性は処女と結婚したがるし、女性は男性に守られたがる。面白いのは女性は童貞を嫌がり、男性は女性に守られなくとも平気なことだ。
ほとんどの男性は遊び相手には処女を嫌がるというダブルスタンダードを持っており、これは良くないと私も思う。
実際、セックスは良いものか?と問われれば私は良いものだと思う。セックスは一種のコミュニケーションだと思うし、する前と最中やした後では相手に対する接し方もより素直なものになると思うからだ。もちろん個人差はあり、独りよがりもいけない。人によるとは思うが事後の方が相手に少し優しくなれる人が多いのではないだろうか。あくまで個人的な考えではあるが。
「この世がメロドラマのようにはいかないのは性病があるからだ」というようなことを言ったのは安部公房の「砂の女」だったか。記憶違いかもしれないが、少なくとも人間の三大欲求である食欲、睡眠欲、性欲が満たされていれば男女とも幸福度が上昇するのは間違いないだろう。妊娠や性病などの性行為に付随する問題や価値観が払拭されて、以前にも触れたオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」のようなフリーセックスの社会になればユートピアが誕生するかもしれないが、読めばわかるとおり、実現は困難である。
まあ見方を変えれば自由恋愛もフリーセックスのようなものだからある程度実現されていると言えなくもないが、少子化や非婚化によって社会に問題が発生している以上は失敗している。
現実問題、結婚相手は処女がいいと考えている男性でもよくよく切り込んでみると、共働き(フルタイム)なら気にしないという男性が多い。
これは簡単な話で、
自分以外の男性と性的関係を持った女性を自分にとって一番の女性として生涯守り養うのがバカバカしいし屈辱的だ
という話である。
これを女性が理解するのは少し難しい。だが、男女の違いを考慮してみよう。男性は有事の際などに自分の後ろで震えている女性に対して不快感を抱くことはない。だが女性はどうだろうか。
有事の際に女性の後ろで震えている男性を生涯のパートナーとして愛することができるだろうか。
性別を逆にするだけで不快感に変化が起こる。このような性差を無視して男女が我慢してパートナーになったとしても心を蝕む。最初は良くともいずれ「なんでこんなヤツと一緒にいるんだろう」と思ってしまう可能性が高い。
自由も自立も良いものである。上手くいくのなら男女平等な社会は理想であると私も思う。だが、現実はフィクションのように甘くはない。男女共に本当に欲しいものは何なのかを考え直す必要があるだろう。あれもこれもとはいかない。世の中には楽しくないこともあり、我慢しなくてはならないこともある。
それこそ「何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない」のだ。
それが成立していたからこそ、どの文化圏もいわゆる家父長制によって発展してきた。自由と責任は等価であるからだ。
そして中途半端に男女平等を実現した社会で男性は、真の平等と称して性差を無視した平等を望み始めた。
遅かれ早かれこんな悲しみだけが広がって
現代社会の男女対立は非常に深刻である。対立をネットの過激派同士の衝突であると矮小化するのは憂慮すべき問題だろう。匿名性は本音を発露させる。家族と同じように中での顔と外での顔があり、例えば授業参観で見る友人の親がまともに見えるからと言って家の中でも同じとは限らない。知り合いや同僚程度の仲では建前も多用するだろう。
「秘書が勝手にやったことです」を嫌悪するのなら自身に利害のある事柄で無関係なフリをしてはいけない。
これに関して言えば男性は性犯罪者を取り締まっている。冤罪の可能性がないのなら間男も痴漢も死刑でかまわないとすら思っているだろう。どちらも社会的に有害であり、なんの利益もないからだ。同時に托卵にも何の利益もなく害でしかない。
だが厳罰化には大した意味がない。犯罪は詰まるところ、やるヤツはやる、だからである。
理想と現実を折衷した罪刑の軽重と社会の構築は人権との相性がすこぶる悪い。何が言いたいかというと、危険の予防、或いは利益の保護のためにどの程度の措置が許されるのか、という問題だ。
個人の利益と社会の利益は必ずしも一致しない。子供の利益と親の利益、男性の利益と女性の利益、完全に対立しないものの完全に一致もしない利益が社会には多く存在する。従来の国家、というより歴史的に勝者であった国家は社会の利益を優先した。
全体の利益を底上げすることで自分の利益も確保する。簡単に言えば「皆が楽に生活できるようになれば自分も楽できるよね」という発想だ。個人差はあるが総体としての男性はこれを根底に社会を構築した。当然数多の失敗をし、結果的に一部の集団しか文明を成立させることができなかった。
だからこそ社会の利益と男性の利益は一致しやすい。なぜなら男性主体の社会以外で文明化できた社会は存在しないからだ。そしてそれは悲しいことに以下をも意味する。女性の利益と社会の利益は一致しにくい、ということだ。
しかし社会の利益の中には女性の利益も含まれている。ややこしくなるが、男女共通の利益は例えば衣食住や治安維持など人間として共通の利益となる。ここが崩れるとその先は全て御破算というわけだ。
そしてそれを維持するためにはまだ人口の再生産と相互扶助が必要である。前者は出産を伴う結婚であり、後者は社会集団の健全な運営である。
まず前者に関して言えば、不妊の階級をつくらないことが必要となる。未婚の男性と既婚の男性では社会に対する協力の姿勢が大きく異なり、それは女性にも言える。特に女性の場合は妊娠中や幼少期の子育て中は社会から特別な配慮を得ることができる。これには男女間よりも女性間で深いわだかまりが生じている。
次に後者、相互扶助に関して言えば男女間で強い対立が発生している。正確に言うなら男性側からの強い反発である。男性目線で見てみると、扶助が相互でない点が最も不満となっている。そのあたりは以下のnoteにも書いたので割愛する。
結局、女性が男性並みに自立して誰かに助けられるのではなく、誰かを助けることを喜べるようになれば男女とも自由に振る舞えるのだが、女性が男性に求めるものを考えれば不可能だと思わざるを得ない。それこそ社会が高度に機械化され、男女とも遊んでいるだけで良いのなら成立するが、現実的にまだまだその段階ではない。
社会的には悪いことであるが、男性は結婚にこだわる必要がない。結婚後に可処分財産が増加する男性はほぼ存在しないし、結婚によってワークライフバランスが改善する男性も同様だ。社会的地位の上昇もほぼあり得ず、訴訟リスクは上昇する。成功すれば生涯のパートナーを得ることができ、また子供を持つこともできる。だが離婚時のデメリットは大きく、多くを失うリスクも高い。贅沢品、ギャンブル、墓場、などと言われる所以である。
だから必死に婚活する男性はほぼ存在せず、まるでフウイヌムの国のガリバーのように婚活市場から撤退する男性も多い。
すると当然成婚は減り、今年2024年は新生児が70万を割る公算が大きいとニュースになっている。だが子供さえ増やせば良いのかと言えばそうではない。
移民や難民に頼れば取り返しのつかない失敗をすることは人権先進国様が体を張って教えてくれている。
私生児を手厚く保護したり一夫多妻にすれば良いのかと言えば、独身者はそんな社会に協力はしない。畢竟、最大多数の最大幸福を目的にしなければ社会は崩壊する。
「幸せは人それぞれ」などと言えるのは恵まれた人間だけである。飢えることや苦痛、他者の奴隷であることに幸福を感じる人間はいない。
人は幸せになるために生まれてきたわけではないが、幸せになるために生きている。
条件さえ揃えば男女は問題なく夫婦になれる。例えば16歳の男女の婚活市場入りを解禁した場合どうなるだろうか?
どちらも無職で平凡な容姿かつ能力、実家も平凡な家庭だとしよう。正直なところ男性側は失敗するだろうと思われる。女性が男性に求めるものをほとんど持っていないからだ。ジャニーズが人気なのは容姿だけではなく、芸能人であること、財産が期待できること、他人に自慢できること、そもそも人気であること、が大きい。
まあバリキャリ女性が平凡な16歳の男性を主夫にでもしたいのなら、それはそれで尊いことであると思う。もちろん双方の合意があればの話であるが。
では16歳の女性の場合はどうだろうか。平凡でなんてこない16歳の女性が婚活市場に参入した時、16歳の男性とどちらが有利だろうか。考えるまでもないだろう。男性は女性に人気者であることも、実家が太いことも、財産があることも、他人に自慢できることも求めていない。むしろ男性の場合、本当に大事なものは周囲から隠す傾向が高い。
双方の合意があるのなら人口の再生産や幸福な家庭の観点からも若い女性の結婚解禁は望ましい。もっともそのための教育や躾が必要だとは思うが。上記の躾や教育は悪い意味ではなく、一時期有名になった中国の暴れ子熊のようにならないためである。
もし男性が貞淑で心根の優しい女性を理不尽に捨てる人でなしであったのなら、社会において女性は全く守られず虐げられているだろう。ただ、これに関しては当の16歳の女性以外から文句の声が聞こえそうだが。そもそも参入する自由は本人にあるので嫌なら参入しなければ良いだけであり、女性の人権は侵害されていない。
あと念のために言っておくがいわゆる弱者男性含む一般男性が20歳前後、つまりもっとも性的魅力があるとされる時期の女性と性的関係を持つのはさほど難しくなく、性行為の機会としての結婚はコストパフォーマンスやリスクヘッジの観点から男性にとって魅力的ではないことを覚えておいた方が良い。恋愛関係は当事者のみで解消できるが、婚姻関係は第三者を介した手続きがなければ解消できない。これは交際が個人的なもので、結婚は社会的なものであることに起因する。
男性は責任や負担が増えるので、女性選びが恋愛とは異なるものになるのは当然である。
あたたかさをもった人間
人が人を好きになるのは条件だ。運命の相手などというものがあるのなら何十億もいる人類の中で出会えるはずがない。直感には反するだろうが実際はそうだ。
よく会う相手やよく話す相手、笑いかけてくれる相手、気遣ってくれる相手などには好感を持ち、長く過ごせば愛着も湧く。このようにして育まれる愛情は最終的に性欲を超越する。惚れた腫れたの恋愛などよりこちらの方が私は健全だと思うし、幸せになれる男女の数も多いだろう。
個人的に思うのだが、若い女性に男性とはどのような生き物で女性をどのように見ているのかを教えるべきだ。都合の良い男性像を広め、女性という生き物の身体について教えず、取り返しのつかないリスクなどをひた隠しにするのは極めて悪質であるだろう。
「幸福な家庭はみな一様であるが不幸な家庭はそれぞれにおいて不幸である」
トルストイの言葉だが、極端な解釈をするなら、幸福は画一性の中に宿るということだ。
社会を見渡すに異性からの愛をより強く求めているのは女性である。しかし男性たちは現状、平均値としての女性に愛する価値を見ていない。勢いや流れ、打算で結婚したところで関係を破綻させているばかりである。
人間の感情の動きは脳科学的で心理学的で社会学的で進化学的なプロセスであり、好意も愛情も神聖視するようなものではなく、条件によってコントロールできるものである。そう考えてみるとグルーミングとか言ってそうな方々は「運命の出会い」を信じていそうで笑えるが。
歴史が正しかったことを経験に学んでいる最中なので我々の社会はビスマルクの言うところの愚者であろうとつくづく思う。
托卵の問題はもはや法律の問題ではなく信用の問題である。厳罰化したとしても根本的な女性不信は解決していなし、本来幸福な家庭にさえも疑念という亀裂を生じかねない。
今回の件で何よりも悪いのは托卵などに対する女性の意見を聞いた男性が、心の底から女性を侮蔑し人間未満であると感じている点である。女性には善悪の判断もつかず、己の快不快以外に判断基準はなく、他人から搾取することに心の痛みを感じていない動物同然の存在なのだと思わせてしまったことである。もちろんそうでない女性も存在するが、問題なのは声高な意見が野放しにされている点と、現実社会での女性の総体としての振る舞い方である。
高い社会的地位や所得を得ても上昇婚をやめられず、進学や就職の枠を政治的に獲得した上であぶれた男性を蔑み、社会的弱者に手を差し伸べるどころか唾を吐きかけ蹴りつける。
過激なツイフェミさんも問題だが、彼女らに全責任を負わせるのは不当と思えるくらいには一般女性も上記の問題を抱えているだろう。フェミニストが勝手に求めたことで迷惑を被っている、と言えるならとんだ恥知らずである。
確かに男女論界隈は覗いてみると気が滅入るのが実情である。しかし過激なミソジニーやミサンドリーにも多少の真理が含まれていたり、学びがあったりする。そもそもここまで激しい議論が巻き起こるということは社会として無視できない状況である証左とも言えるだろう。
むしろ彼ら彼女らを、一般の男女の抱える問題や集団的な意識、社会的な空気感の可視化としての境界面とみることもできるのではないだろうか。
つまり、過激な主張に隠されつつも一般男女の本音をある程度代表しているという見方だ。
そして彼ら彼女らの意見、要望の優先順位を明らかにして、実社会において実現可能な範囲で制度として反映すると、不思議なことにいわゆる家父長制の社会に回帰するのが大変面白いところだ。
男女には性差があり、お互いに絶対にできないこともある。それを無視して社会を構築すれば分不相応なあり方は負債のように社会を蝕む。過去の貯金を食い潰し、ジリジリと貧しくなっていく。蓄えがあるうちは辛うじて運営できるが、完全にマイナスに転化した時に我々は、するべきでなかったことに深く後悔することになるだろう。
最後にプルタルコスを引用して締めるとする。
我々の社会は高く飛びすぎず、また低く飛びすぎず、ちょうど良いあたりを飛ばなくてならない。