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心を荒ませるだけの呪われたフェミニズム
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訳もなく悲しくなりません?
先日、あるフェミニストさんのnoteを読んだ。内容はともかく整然とした文章に少し興味を惹かれ、一応その方の全てのnoteに目を通してみた。
主張そのものは一般的なツイフェミさんと同程度であり、細かい内容もほぼ既出の意見であった。
だが特筆すべきはその文章の質である。語彙力や表現力、論理構成は申し分なく、ツイフェミさん特有の支離滅裂な文章とは程遠い代物であった。
にもかかわらず、彼女の主張は思考の範囲、深度、レベル、どれをとってもツイフェミさんのそれと同等であったのだ。
数十ある彼女のnote全てを拝読してみたところ、恐らくIQ自体は高いのだと思う。学校のテストでは成績が良いだろうし、事務処理能力も優秀だろう。彼女自身も自ら能力を評価しているらしく、noteの半数くらいは自分がいかに優秀であるか、また他人からどれだけ評価されているか、大多数の人間(主に男性)がどれだけ劣っているか、について書かれている。
正直、下手の考え休むに似たり、といった次第なのだが不思議なのは勉強自体はできそうなところである。
そして彼女の最も興味深いところはその主張ではなく、精神状態である。
私が彼女をツイフェミさんだと表現したのには理由がある。彼女は特定派閥のフェミニストさんにはなりきれず、多くを抱えていたのだ。
例えば、「男性や社会は女性の妊娠、出産に対して無理解でまともな報酬も無しに女性に妊娠出産を強いている」というような憤りを見せたかと思いきや「出産した女性の優遇されて当たり前のような態度や、役割を果たしたかのような自信」にも強い怒りを覚えている。
また、男性を深く憎悪しつつも結婚に強烈な憧れを持っている。
そして、社会に対して煮えたぎるような不満や復讐心抱え、それらの全ての責を男性に負わせるという点においてやはりツイフェミさんであると評価せざるを得ない。
だが、恐らく彼女は過渡期にあるのだと思われる。私見だが大抵の場合にフェミニストさんは子持ちか出産適齢期を過ぎるまでは妊娠出産を盾にとって社会からの優遇を要求するが、それを過ぎると反出生主義者になる。
まあ、それはおいておくとして彼女はモテる上に高い社会的地位に高い収入、彼女を評価する理解のある人々に囲まれて充実した社会生活を送っているらしく、パートで働くの中高年女性や低賃金で働く男性などを見下し、その他社会的弱者などを蔑み嫌悪していた。それも男性に関しては死を願うほどに。
noteの大半は自分語りであったし、他者の属性や形質に対する差別もやめられないようであった。
充実した人間は過剰な自己顕示欲を持たない。彼女の攻撃的な主張や差別発言からは憎しみと同時にそれ以上の悲しみが伝わってくるようであった。
私には、自らを選ばれた者だと自認し他者を睥睨する彼女こそ、苦しみに喘ぎ救いを求めているように見えた。
そんな彼女の心の拠り所はどう見てもフェミニズムなのだが、その思想は彼女を救えるのだろうか。
古来より人は救いを求めてきた。世界には様々な宗教が存在しているが、宗教に傾倒する理由は主として救われたいからだ。
どうしようもない無力感に苛まれたい時、人は祈る。
そういった祈りを向けられるのが宗教なのだ。
つくしあきひとの「メイドインアビス」においてボンドルド卿は以下ように言った。
「喜びしか知らぬ者から祈りは生まれません」
そう、苦しみに喘ぐ者の呪いの声こそ救いを求める祈りであるのだ。だから宗教はその苦しみに答えを与える。
なぜあなたはそんなに苦しいのか、と。どんな理不尽や不条理があなたを苦しめているのか、と。
どうすれば救われるのか、と。
例えば、ユダヤ教における人間が苦しまなければならない理由はこうだ。
「人類の祖が神の言いつけ破って楽園を追放されたから」
先祖の悪事、すなわち原罪によって子孫である人類は苦しまねばならない。そういう発想なのだが、これが日本人には中々理解できない。
恵まれた環境では大抵は自然崇拝が起こり、死後の救いなど考えないし、この世を罰とも考えない。
だから多くの日本人は「人類には原罪がある」と言われても「なにそれ?日本人には関係ないでしょ、巻き込まずに勝手にやっててよ」という感覚になる。宗教というものには民族の歴史や性質が反映されるからだ。
これは私見だが、宗教が想定する死後の世界が楽園ではない宗教を持つ民族は歴史的に見てかなり恵まれている。
そしてユダヤ教は自分達を救済してくれる存在として救世主を夢想した。
現在ではそれがイエス・キリストであるとされているが、それは以前にも書いたようにエホバとイエスを同一視したキリスト教の隆盛によるものであり、ユダヤ教とそこから派生したイスラム教もイエスを神とは認めていない。
だが、1人の人間としてイエスが人々をどう救おうとしたしたかに着目するのは面白いと思う。
ここからは「教え」による救済について宗教をまじえながらフェミニズムによる「救い」を考えていきたい。
来ると思ったよ
日本のサブカルチャーをはじめとして、我々のキリスト教に対するイメージはかなり良くない。
それは歴史的に仕方がない部分もあるのだが、「OVA機動戦士ガンダムUC」において一年戦争や地球コロニー間問題の原因となった宇宙移民政策を「善意から始まったこと」と表現したように、多くの宗教も善意から始まっている。
キリスト教ではなくイエス個人に着目することで「救い」について考えていこう。
ご存知とは思うがイエスはユダヤ人である。ユダヤ人として育ったイエスは当然ながらユダヤ教の空気の中で成長していった。
当時ユダヤ人がおかれた状況はかなり厳しいものだった。
彼等の国土は小さかったが、その小さな国土はペルシャによる支配から始まって、ギリシャ、エジプト、シリヤ、パルチア、そしてローマとほとんど五百数十年にわたって外国の支配下にあった。
(後略)
遠藤周作
株式会社新潮社
昭和57年5月25日発行
そんな中、ユダヤ人達はひたすらに自分達の神であるヤハウェを信仰し、いつの日か救世主を送ってくれると信じていた。
ちょうどイエスが活動した時代はローマによる支配を受けていた時代である。
ある程度の信仰の自由はあるものの神殿の祭祀階級は腐敗しており、一般的なユダヤ教徒から見れば不満があった。
彼らが求めるのは自分達をローマから解放する救世主である。だからこの時現れた洗礼者ヨハネの存在は民衆にも神殿側にも大きな影響を与えた。
(前略)
「蝮の裔よ。来るべき神の怒りを逃ることを誰が汝等に教えしぞ。されば改心に価する果を結べ」
(後略)
遠藤周作
株式会社新潮社
昭和57年5月25日発行
イエスは活動当初ヨハネの教団に身を寄せるが、ヨハネの説く神はあまりに厳しいものだった。
それが本当の神の姿だろうか。洗者ヨハネ教団のなかでイエスはおそらくこのことを御自分に訊ねられたであろう。彼はナザレの小さな町の貧しさとみじめさとのなかで生きている庶民の人生を知っておられた。日々の糧をえるための汗の臭いも知っておられた。生活のためにどうにもならぬ人間たちの弱さも熟知されていた。病人や不具者たちの嘆きも見ておられた。祭司たちや律法学者ではない、これらの庶民の求める神が、怒り、裁き、罰するものだけではないと彼は予感されていたのである。
遠藤周作
株式会社新潮社
昭和57年5月25日発行
実はこの罰する神のイメージは現代にも馴染み深い。罰する神は支配の道具として非常に有効であったし、実際に罰を恐れて罪を犯さないという効果は社会にとっても有用であった。
一般的なキリスト教圏の国家が行なってきたことは↓のnoteでも書いたように侵略である。
だから、当のキリスト教圏の国家以外からみればキリスト教は傲岸不遜で鼻持ちならない支配者の宗教というイメージなる。
その偶像はミケランジェロの「最後の審判」に描かれたような神の姿がよく合致している。
このnoteで参考にしているイエス観は遠藤周作が解釈したものであり、通常とは異なるのかもしれない。
だが、超人的に描かれるイエスよりも1人の人間として描かれるイエスの方が比較にならないほどの魅力を秘めていると私は思う。
イエスにとっての神は特定の誰かだけを救い、他は救わないような狭量な神ではなかったのだろう。
神の怒りではなく神の愛を説くイエスの行動は彼に律法をも無視させた。
自然はうつくしいが、人間の生活はみじめなこの湖畔の村々には、隣人や家族からも見離された病人や不具者がいっぱいいた。祭司たちからは蔑まれる収税人や娼婦のような男女もいた。聖書を読むとイエスはほとんど偏愛にひとしい愛情でこれら人々から見捨てられた者、人々から軽蔑されている者のそばに近づいている。湖畔の村々にはマラリヤの患者もおり、人々は彼等を悪霊に憑かれた者と忌み嫌ったが、その患者たちの看病もされている。町や村に近づくことを許されぬ癩病人たちは律法によって神の罰を受けた者、不浄な者と見なされていたが(レビ記、十三、十四)、イエスはそのような律法さえ無視して、彼等を助けようとした。人々から馬鹿にされている収税人も弟子の一人に加えられ、人々が軽蔑する娼婦たちも決して拒絶されなかった。
遠藤周作
株式会社新潮社
昭和57年5月25日発行
それらのエピソードの一つが以下だ(ルカ7章36節)。
「パリサイ派の人、イエスを食事に招きしが、イエスその家に入りて食卓につき給いし時、町に住む罪を犯せし一人の女(娼婦のこと)香油もりたる器もち来り、……泪にてその御足を次第にぬらし」
その一節を読むだけで、我々はそこに描かれていないさまざまな状況をまぶたに浮かべることができる。
おそらくこの話に出てくる娼婦はマグダラか、その附近に住む貧しい娘だったのだろう。生きるために彼女はさまざまな男に体を与え、男たちはその体を弄んだくせに彼女を蔑みながら金を与えたのであろう。男と横になっている時、彼女は闇のなかに空虚な眼をじっと見ひらいて身じろがなかっただろう。
イエスのことを彼女は誰に聞いたのだろうか。どうして彼女は彼をたずねようと思ったのだろうか。ひょっとすると、ある夜、自分を買った男から耳にしたのかもしれぬ。あるいは湖畔にじっと腰かけている疲れたような彼の姿を遠くから見たのかもしれぬ。
彼女はイエスがどんな人かは知らなかったにちがいない。ただその姿から言いようもない「やさしさ」を見ぬいたのだろう。自分の惨めさにも自分にたいする蔑みにもあまりに馴れていた彼女は、どんな人が本当の心のやさしさを持っているか本能的に感じたのだ。
イエスが食事をしている家がパリサイ派の家であったため、彼女はおそらくその中に入る時、下男たちから遮られたであろう。パリサイ派の人たちには娼婦などは話しかけることも避けねばならぬ賤しい、恥ずべき女だった。旧約の世界では彼女たちはしばしば預言者たちの呪いの対象となっている。だから下男たちの制止をふりきって彼女は広間にはいり、食卓から驚いたようにふりむいた人々の視線を浴びながら、イエスの前まで一直線に歩いていったにちがいないのだ。
彼女は何も言わなかった。何も言わずイエスを見つめただけだった。やがてその眼から泪が溢れでた。その泪だけで今日までの自分の哀しみを訴えた。「泪にてその御足をぬらし」という簡潔な表現がこの時の彼女の惨めさと苦しさとをはっきり私たちに伝えてくれる。
その泪でイエスはすべてを知られた。この女の半生、人々から蔑まれ、自分で自分の惨めさを噛みしめたかも理解された。その泪で充分だった。神がこの女を悦んで迎え入れるには、それで充分だった。
「もう、それでいい。わたしは……あなたの哀しみを知っている」
とイエスは彼女にやさしく答えた。彼がこの時、つぶやかれた言葉は聖書のなかで最も美しいものの一つである。「この女は多く愛したのだ」そして、イエスは次のように言った。
多くを愛するものは
多く許さるる……
遠藤周作
株式会社新潮社
昭和57年5月25日発行
女性の手に取り戻そうとしているのよ!
それではフェミニズムについて考えてみたい。
フェミニズムの先駆けとして有名なメアリ・ウルストンクラフトの思想は男女の助け合いを前提としたものであった。
女性を教育し、男性と共に社会を築くことでより良い未来を目指す、素晴らしいことだと私は思う。もし人間が神によって平等に創造された存在であったのならそれも可能だっただろう。
そうでなかったからこそフェミニズムは現代のようなカタチをとっている。
昔は違ったようなことも言われるが、私は大差ないと思っている。メアリのような女傑ばかりにフォーカスすることで一般的な女性の存在を無視しているのではないだろうか。
男女が教育や育ち方だけで同様の存在となると考えるのは傲慢だ。人間を被造物などと考えるから生まれる発想であろう。
結局フェミニズムが何をもたらしたか考えてみ
るといい。
なるほどフェミニズムは女性に自信を与えた、財産を与えた、地位を与えた。
だが、愛は与えなかった。
そして愛を説くこともなかった。
女性は男性よりも優れていると言うのなら、「愛」や「優しさ」を示す必要があったのだろう。
人を愛せることも、人に優しくできることも強者の特権である。
本noteで取り上げたツイフェミさんも強者を自負するのなら、弱者を包摂しなければならなかった。
「人の死は悲しまなくてはならない。救えることを喜ばなくてはならない。人が生きることを尊ばなくてはならない」
これは「戦う司書」というアニメの言葉なのだが、私も自分に言い聞かせるようにしている。
自分を少しでも強いと思うのなら、他人に対して優しさを持つ必要があるだろう。
件のツイフェミさんは地位も財産も名誉も自信も、フェミニズムが与えてくれるものは全て得ている。一般的に見てかなり恵まれた立ち位置にあるだろう。にもかかわらず幸せそうには見えない。
社会を呪い、男性を呪い、女性までも呪う。多くの人間の不幸や死を願う人間が幸せであるわけがない。そんな彼女の最後の砦がフェミニズムなのだ。フェミニズムは彼女の苦しみの原因をどう説明するだろうか。
簡単である。この宗教は必ず女性の苦難の発端を男性や男性社会に帰結させる。
そしてその女性を内省の無い人間にしてしまう。内省の無い人間は認知能力が育たない。
認知能力が低けば物事を正確に把握できない。仮に推論能力が高かろうと前提が間違っていれば結論も間違う。まして結論ありきであれば尚更である。
自分が望むものを得られないのは女性を抑圧する男性や男性社会のせいだと信じて疑わないので、人の話に聞く耳も持たない。
更に、自分は優秀であると信じているので相手の話を「聞く価値のないもの」としてしまう。女性に諭されれば「名誉男性」、男性に諭されれば「加害」でしかない。
自分への理解を求めながらも理解されることを拒み、理解してくれないことを咎める。
格下に私は理解できない、私は特別なんだと思っていられるうちはまだ良いだろうが、いずれ理想と現実の差に傷つくことになるだろう。
結局のところ、総合的に見れば彼女が見下しているその他大勢の男女よりも彼女は賢くはない。
そして彼女に自惚れと独善を与えたフェミニズムは、最後に孤独を与える。
孤独とは愛の欠如である。だから社会的に、物質的には満たされながらも愛からは遠ざかりすぎているから彼女は身を裂くような苦しみに苛まれているのだろう。
彼女の文章からは心が千々に砕けるかのような苦痛を感じる。
イエスは群衆の求める奇蹟を行えなかった。湖畔の村々で彼は人々に見棄てられた熱病患者のそばにつきそい、その汗をぬぐわれ、子を失った母親の手を、一夜じっと握っておられたが、奇蹟などはできなかった。そのためにやがて群衆は彼を「無力な男」と呼び、湖畔から去ることを要求した。だがイエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は、彼等を愛する者がいないことだった。彼等の不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望が何時もどす黒く巣くっていた。必要なのは「愛」であって病気を治す「奇蹟」ではなかった。人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。
(後略)
遠藤周作
株式会社新潮社
昭和57年5月25日発行
この文の言葉を借りるならツイフェミさんに必要なのは「奇蹟」ではなく「愛」であろう。
フェミニズムは「奇蹟」は与えるが「愛」は与えない。だから結局は満たされないのである。
更にフェミニズムはその愛の欠如さえも男性に責任を負わせる。
それで男性を憎悪しつつも男性からの愛を求めるという不可思議な状態になってしまうのだ。
しかしだからこそ私は、フェミニズムは愛を語るべきだと思う。今では男性に対する罰ばかり語っている印象であるが、強さを誇示するのなら愛を語るべきなのだ。
孤独の苦しみが理解できるのなら他者の孤独に寄り添うべである。それが強い人間だ。
UC風の言い回しをするのなら、
「内なる可能性を以て、女性の女性たる力と優しさを世界に示す」
である。
それが結果的に女性を救うことになるだろう。
現状のフェミニズムでは女性は救えない。
件のツイフェミさんのように孤独に追い込まれるだけである。
フェミニズムによる祝福と呪いを一身に受けている彼女に必要なのは、目を曇らせるだけのフェミニズムを捨てることだろう。
そして、自分に見下せる人間などいないと気付くか、見下している対象を包摂するかのどちらかになる必要がある。
つまり過分なプライドを捨てて
「私は弱いのでどうか私に愛を下さい」
とお願いするか、
「私は強いので弱い人たちを愛します」
と表明するか、のどちらかのあり方を選べなければ永遠に孤独の苦しみを味わうことになるだろう。
余談だが、ツイフェミさんたちは発想や思考がよく似ているのに何故か一括りにされるのを嫌がり、自分には他人とは違う個性があるということをよく言っているが、みんな同じことを言っているので逆に没個性になるという不思議な現象が頻発している。
だがそれはそれで画一的に救済可能なのかもしれないという希望をもたせてくれる。
助け合うための男女平等という過去のフェミニズムの祈りを呪いにしてしまわないためにも我々は、人を愛さなければならないのだと思う。
以下のようなものがフェミニズムの呪いである。
最後にまた「戦う司書」の好きな言葉を引用して終わる。
傷ついた人間は助けられねばならない
苦しむ人間は救われねばならない
孤独な人間は愛されねばならない