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あたたかな家出

澄んだ冬の空のようなブルーのマフラーを手に、お母さんは、ニコニコしている。わたしの大好きな色だけど、ちっともうれしくない。

「ひとりで、ぜんぶ編むって言ったのに」

「だめだめ。ゆいちゃんのペースで編んでいたら、休み明けのスキー合宿に間に合わなかったじゃない」

「来年は中学生だよ。自分でやれたよ」

「ゆいちゃんのために手伝ったのよ」

悲しそうな顔で言われたら何も言い返せない。呑み込んだ涙がしょっぱい。

お母さんの「ゆいちゃんのため」は、わたしのこころをしばりつける呪文だ。勉強を頑張らないといけないのも「ゆいちゃんのため」。ポテトチップスを食べちゃいけないのも「ゆいちゃんのため」。

部屋に立てこもったけれど、本も洋服もお母さんが選んだものばかり。スキー合宿に着ていくジャンバーだって、お母さんが選んでしまった。

こんな家にいたくないけど、単身赴任のお父さんのところには、新幹線に乗らないと行けない。

わたしは、隣の町に住んでいるおばあちゃんのうちに家出することにした。わたしは「いっさいっさのおばあちゃん」と呼んでいる。おばあちゃんの口ぐせの「いっさ」は、「いいよ」という意味だ。おばあちゃんなら、わたしの気持ちをわかってくれる気がした。

お母さんに気付かれないように、物音を立てずにマンションのドアを開けて外に出た。背中でオートロックキーがカチャリとかかると心臓がドクンといった。

電柱が立ち並ぶコンクリートの道が、いつもより冷たくよそよそしい感じがする。わたしは思い切り自転車のペダルを踏みこんだ。日がどんどん落ちていくのに急き立てられて自転車を漕ぐ。お母さんの車の窓から見える景色と今日の景色は違う感じがして、道があっているのか不安になる。

三十分経って、ようやくおばあちゃんのネギ畑が見えてきたころには寒さでカチカチと歯がなっていた。へとへとになって、窓に明かりが灯った小さな家の軒先に、自転車を停めた。

「おばあちゃん、いる?」

おばあちゃんの家には、留守でも鍵がかかっていたことがない。玄関の戸を開けて、なかに入ると、赤く燃えた石油ストーブの上でやかんがチンチンと音を立てていた。寒さでかじかんだ手がじわーっとほどけていく。

「ゆいちゃんかい?」

振り返ると、手ぬぐいで白い髪をまとめたおばあちゃんがネギを抱えて立っていた。

「ひとりでよく来たなあ」

おばあちゃんの目元にしわがきゅっとよる。

「家出してきた」

怒られるかもしれないと、小さな声になる。

「いっさいっさ、ゆっくりと泊まっていきな」

おばあちゃんは、土の匂いのするごつごつした手で、わたしの頭をなでてくれた。ほっとして、がまんしていた涙もにじみ出る。

手

おばあちゃんは、お母さんのお母さんだけど、なんでも禁止するお母さんとは、ちっとも似ていない。そのせいか、おばあちゃんに会いたがると、お母さんはいつもいやそうな顔をする。それが、わたしは悲しかった。

おばあちゃんは、電話で、お母さんに連絡を入れてくれた。

「さあて。ネギの皮でもむくか」

おばあちゃんは、ネギを玄関の土間に置いて、泥付きの皮をツルツルっと器用にむきはじめた。

「わたしもやる!」

「いっさいっさ。ふたりでやろう」

めくれた葉をつまんで引っ張ると、スーッと皮がとれて、真っ白な新品のネギが出てくる。スーッ、ピカリ、スーッ、ピカリ。夢中になるうちに、ささくれていた心が治っていくみたいだ。

玄関の引き戸が開く音に、はっと顔を上げると、いつの間にかすっかり暗くなった玄関先に、怖い顔をしたお母さんが立っていた。

「ゆいちゃん、心配したわ。あらあら。ネギなんて汚れるからさわっちゃだめよ。ここは何もかも古臭いし、おばあちゃんは何もできないし。さ、帰りましょう」

「だめ」「だめ」「だめ」…。お母さんに今まで言われた「だめ」という言葉が、おなかの底にマグマのようにたまって、グラグラと音を立てていた。おさえきれなくなって、わたしの口から、燃え盛る矢のような言葉が、飛び出した。

「おばあちゃんはだめなんかじゃない! おばあちゃんはお母さんとは違う。お母さんは、わたしのやりたくないことをさせて、本当にやりたいことは、させてくれない。もう、放っておいて!」

お母さんは目を大きく開いて、わたしを見た。まばたきしたら負ける気がして、わたしはお母さんをにらみ続けた。先に目をそらしたのは、お母さんだった。

「一晩だけ、ゆいちゃんをよろしくお願いします」

お母さんは小さな声でおばあちゃんに頭を下げると、戸も閉めずに帰っていった。車の音が遠くなると、シンと静かになった。静かすぎて耳がいたくなるくらいだ。

おばあちゃんは、パン!っと両手をたたいて、陽気に言った。

「ゆいちゃん、風呂炊くから一緒に入ろう」

おばあちゃんちに泊まるのは、初めてだ。お風呂場は、床や壁がタイル張りで、はだしで歩くとひやっとする。お風呂は、炊飯器の中に入っているおかまよりずっと大きな金属のかまでできていた。

「五右衛門風呂っていうんだよ。おばあちゃんの父ちゃん、母ちゃんの時代の風呂だけど、からだの芯からあったまるよ」

スイッチを押せばお湯が出るうちのお風呂と違って、かまに水を入れて、下で木の枝を燃やしてかまを温める。火をたく場所が、「かまど」というのも初めて知った。

「焚き木に火をつけてみるかい」

おばあちゃんはマッチ箱をひょいと放ってよこす。

「やってみたい!」

ライターはキャンプで使ったことがあるけど、マッチははじめて使う。マッチの頭を箱の茶色いところへ何度こすっても火がつかない。そのうち、マッチ棒が折れてしまった。

「おばあちゃん、できないよ」

諦めてマッチ箱を返そうとすると、おばあちゃんが一本のマッチを取り出した。

「力まかせにこすらないで、手の力を抜いてごらん。こんなふうに」

おばあちゃんがシュッと軽やかにマッチ棒を箱にこすると、すぐにマッチに火がついた。

おばあちゃんの真似をして箱に押し付けないように、マッチ棒を軽くこする。

シュッ

「あ、ついた!」

わたしはあわてて、焚き木のそばの丸めた新聞紙の上に燃えているマッチをそっと置く。おばあちゃんは、かまどに木の枝をたして、うちわで火をぱたぱたとあおいだ。チロチロと小さく燃えていた木の枝がパチパチッと音をたて、炎が大きくなっていく。

「そろそろ、いい湯加減になったさ」

服を脱いで、先に入ろうとするけど、かんかんに熱くなっているかまに触ったらやけどしてしまいそうだ。お母さんだったら絶対五右衛門風呂を使わせてくれないだろう。

「かまに浮いている木の板に体重をのせて沈めていきな」

風呂場の縁につかまって、熱いかまを触らないように注意しながら、木の板の上に乗り、沈めていく。あとから、おばあちゃんが入ると木の板がぐらぐらと揺れた。湯がざあっとあふれ、わたしは、「わー!」と歓声を上げた。

最初は熱いと思ったけれど、だんだん慣れて、ぽかぽかの五右衛門風呂がすっかり気に入った。おでんの大根みたいに、こころの芯まで温まるようだった。

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「おばあちゃんがお母さんならよかったな」

肩まで湯につかりながら思わず言うと、おばあちゃんは首を横にふった。

「畑仕事で忙しかったから、おばあちゃんは、子どもに何もしてやれなかったんだ。ゆいちゃんのお母さんは小さいころから、ぜんぶひとりでやっていたんだよ」

「うるさく言われないなんて、うらやましいけどな」

「お母さんみたいになりたくない!って、おばあちゃんも言われたことあるからなあ」

そう言って少し笑ったおばあちゃんのさみしそうな目が、さっきのお母さんの目に似ていた。

仏間におばあちゃんと布団を並べて寝ることになった。

「ねえ、おばあちゃん、なんでお母さんはわたしのしてほしくないことばかりするんだろう」

「ゆいちゃんは、自分の子どもにはどうしてあげたい?」

「やりたいって言ったことを何でもさせてあげたいな」

「ゆいちゃんのお母さんも同じだよ」

電気を消すとすぐにおばあちゃんの寝息が聞こえて来た。わたしは布団の中で、帰って行ったお母さんの肩をおとした後ろ姿を、何度も思い出した。お母さんがわたしの気持ちがわからなかったみたいに、わたしもお母さんの気持ちがわからなかったのかもしれない。チクタクチクタクと鳴る古い柱時計に責められている気持ちがして、なかなか眠れなかった。

朝、起きると、おばあちゃんはもういなくて、布団は部屋のすみによせてたたんであった。

「おばあちゃん、おはよう」

顔を洗ってからテーブルにつく。おばあちゃんはウインナーを焼いて目玉焼きをつくってくれた。

「さあさあ、食べよう」

「いただきます」

おばあちゃんがせっかくつくってくれたけど、やっぱりお母さんのオムレツの方がおいしいと思った。

「お母さんは、子どものとき、おばあちゃんにしてほしかったことを、わたしにしていたんだね」

おばあちゃんは優しい目をしてうなずいた。

朝ごはんの片付けを手伝ったあと、すぐに、家に帰るというと、おばあちゃんは、「そうかい。またおいで」と顔をくしゃっとして笑った。

お母さんに何て言おう? と考えながら自転車をこいでいると、帰り道はあっという間だった。

ドアホンを押すとすぐにドアが開いたけど、お母さんの顔を見られない。

「昨日はひどいこと言ってごめん」

わたしは、お母さんのスリッパに向かって言った。

スリッパ

「お母さんも今までごめんね」

わたしはおどろいて、顔をあげた。お母さんがあやまったのははじめてだ。

「これからは、なんでも自分でやりたい」

わたしは、まっすぐお母さんの目を見て言う。

「わかった。お母さんも、あなたから卒業しないとね」

お母さんは、真剣な目でうなずいてから、笑った。

お母さんの目元は、やっぱりおばあちゃんに似ていると思った。

スキー合宿の朝がきた。白い息を真っ赤な手にハアっと吹き付けると、マフラーとおそろいの色の手袋をつける。手袋はお母さんに聞きながら、全部ひとりで編んだ。形は少し変だけど、全然恥ずかしくない。わたしの大切な宝物ができた。

吹き付ける北風をほっぺたでぐいぐい押しのけて小学校へ歩きながら、わたしは決めていた。

帰ったら、お母さんとおばあちゃんのうちに泊まりに行こう。そして、五右衛門風呂に一緒に入ろう。

首に巻いた空色のマフラーは、おばあちゃんの五右衛門風呂に負けないくらい、暖かかった。



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