160円の思い出〈コップ一杯の夢と適量のノンフィクション〉
舌が肥えてはいないので同じコーヒーなら結局のところ、自販機やスーパーの100円もカフェでの800円もそんなに変わらないと思っている。
まぁ両手で握りしめる温もりは100円で買えなくなりつつあるが。
とはいえ全く利用しないわけではない。
スーパーから帰り部屋の明かりもつけずプルタブを起こすのも、カウンターで一点の壁を見つめながらコップを持つのも独りである。
どうせ外に行くなら人との交流があるところがいい。どこで安くかより、誰と過ごすかに重きを置いている。
そのため誰か誘うか、近くの席の人に話しかけたりする。
いや、100円で誰かと共にできるならより良い。今の時代は160円が妥当だろうか。そんな気のおけない相手は僅かである。
年月が過ぎるとともにすっかり疎遠になった人、未だに付き合いのある人、これからそうなる気がする人と、繰り返している。
それぞれの相手に、それぞれの飲み物に思い出がある。
スーパーで無意識のうちにあの時と同じ飲み物をカゴに入れるのは、まだ後腐れがあるからか、離れても前に進もうという気持ちからか。
帰ったらマグカップに入れてレンジにかけようか。
160円で買ったぬくもりで、温め直す思い出たちを。