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みられていないし、みられている〈コップ一杯の夢と適量のノンフィクション〉

「日頃の行いは常に周りにみられている」というようなことはよく言われる。

例えば深夜に車も人も明らかにいない横断歩道の赤信号でも青に変わるまで待つような、日中でも点滅信号で走らず次に変わって渡るような、褒められることはなくても心の余裕を持ちたい。
そうしないと、これぐらいいいだろうという浅はかさと、良心の呵責とが心に湧き起こる。

SNSだとどうだろう。
私の場合、投稿をみているのはフォロワーの4人に1人、そしてイイネをしてくれるのは100人に1人程度だ。
4人に1人からは「みられている」ようだが実際は「見流して」いて、かといって誰にも「みられていない」ようだが100人に1人からはキチンと「みられている」のだ。

皮肉なことに、他人の投稿にはイイネせず親指でスクロールしてしまうのに自分のソレは気にしてしまう。
あまり述べたくはないが、なんでフォローしてるんだっけ、という人が一定数いる。
面識はなく内容がいいなと当時は感じてたわけだが、フォローを外すのも申し訳なさがある。これも見流してしまう要因なのかもしれない。

信号機の話に戻ると、全く知らない横断歩行者が視界の端に入っているようなもの、といえばいいだろうか。視界に入るから「みて」はいるものの、注視はしていない。

「みる」には様々な漢字が当てはまるため、敢えて平仮名で記載した。
日頃の行いは目に入る程度で「しっかりとみてくれる」人は少ないが、100人に1人くらいには「みている」ことを心にとどめつつ、過ごしていきたい。

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