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山田尚子監督映画『きみの色』:罪の告白で終わらせる青春

映画『きみの色』を見てきた。山田尚子監督の記念碑的な作品になると確信したが、あまり話題になっていないようなので危機感を覚えてレビューを書いた。

内容に言及しているので、念のためネタバレ注意


作品概要

『きみの色』はオリジナルの長編アニメーション映画で、監督は山田尚子。『けいおん!』や『映画 聲の形』、『リズと青い鳥』の監督といえば通じると思う。

脚本は吉田玲子、劇伴は牛尾憲輔であり、監督以外のスタッフも『映画 聲の形』や『リズと青い鳥』や『平家物語』と共通している。

作風は『リズと青い鳥』が最も近い。淡い色彩を基調とした配色、震える輪郭線、指で触れれば溶けてしまいそうな繊細な人間模様、円形や円運動にこだわる人間の動作、ガラス玉が触れ合うような透明度の高い劇伴と効果音が特徴的である。

ジャンルは公式的には「青春×音楽」らしい。敢えてどちらかに決めるなら、後述の理由で「青春」になるだろう。確かに、作中のメインキャラクターがバンドを組むので「音楽」も候補に挙がるが、練習や作曲のシーンが挿入されるものの、本格的な演奏シーンはラストのみとなる。したがって、音楽はどちらかといえば物語のテーマを完成させるための手段であり、「青春」に従属しているといえる。

感想

プロットについて

ストーリーの概要を整理する。キリスト教系の高校に通うトツ子は、人の「色」が見えるという「秘密」を抱えている。トツ子は同じ学校に通う黒髪の女の子・きみに憧れを抱くが、きみは突然高校を退学してしまう。トツ子は噂を頼りに探し出して古書店「しろねこ堂」で再会を果たすが、そこで音楽の好きな少年・ルイとも偶然出会い、トツ子の出任せで急遽3人がバンドを結成することが決まる。

物語が進むにつれて、トツ子が「秘密」を抱えているように、きみとルイの二人も秘密を抱えていることが明らかになる。きみは同じ学校の卒業生である祖母の期待を背負ってその学校に通っていたのに中退してしまい、そのことを祖母には「秘密」にし続けている。他方、ルイは離島の医者を代々務めてきた家系であり、医学部を受験しなければならないが、親には「秘密」で音楽に熱中している。

物語は各々が抱える「秘密」の告白と、文化祭当日のバンド演奏本番に向かって展開する。

罪の告白で終わらせる青春

主人公・トツ子の通う学校では、シスターが廊下を行き来して、生徒が讃美歌を歌い、聖書からの引用もたびたび挟まれる。

このミッション系の高校の舞台設定は飾りではない。物語は「秘密」の告白に向かって進むが、後ろめたい「秘密」を抱えるきみとルイの二人にとっては、秘密の告白はまさに罪の「告解」となり、舞台設定が効果的に物語のテーマに絡んでくる。

先にこの作品のジャンルは青春だと述べたが、実はこの作品にわかりやすい愛の告白はない。その代わりに、裏切りたくない相手に対して、きみとルイの二人は罪の告白をすることになる。

ところで、改めて整理するが、物語は3人の抱える秘密の告白をゴールとしていた。主人公のトツ子は、人の「色」が見えるという「秘密」を抱えており、きみは祖母に対して退学したことを「秘密」にし続けており、医者家系のルイは音楽に打ち込んでいたことを親には「秘密」にしていた。

このうち、きみとルイの2人は秘密にすることで後ろめたさを抱えていた。きみはその学校への進学を期待してくれた祖母に対して中退を告げることで、改めて高校生活が終わった事実を確定することになる。他方、ルイは医者になるべき使命に反して、音楽に精を出していたことを親に告げ、今後は医学部受験に向けて勉励することを約束し、将来を確定する

つまり、中退したきみと、受験から離れていたルイは、秘密の告白によって現在の状態や今後の方向性を明確にし、曖昧な状態から脱することになる。その曖昧な状態を仮に「青春」とするならば、映画『きみの色』とは、罪の告白によって自らの青春を終わらせる作品ということになるだろう。

罪の赦しによって終わる青春

きみは祖母の期待を背負って通学した高校生活を、祖母の期待に反して終了させた。一方、ルイは親(あるいは先祖代々)の期待を受け入れて自分の使命とした。

ここで重要なのはどちらの選択肢も否定されていないことである。他人の期待に応えられずに別の道を選択することも、他人の期待通りの道を選択することも、各々が自分の人生を前に進めるための決断として、ここでは肯定されている。

恐らくきみの祖母にとって、中退の事実はきみが告白する前から既知の情報であった。街中できみの通っていた学校と同じ制服の女の子を見て、きみの祖母が話しかけるシーンが一瞬だけ挟まれるが、あのシーンの意図はそれを示唆することだったと考えられる。劇中できみは中退直後から校内で様々な噂が立っていたので、同校の卒業生であるきみの祖母は、同じ学校の生徒に自分の孫のことを話したら中退の事実を知るに至った。このような背景をワンシーンで間接的に描写したのだろう。

それが正しいとするならば、祖母はきみが自分から打ち明けるのを受け入れる用意があったことになる。つまり、きみの退学の決断を否定する選択肢は最初からなかったことを意味する。

そればかりか、その選択肢を前向きに尊重もできたのだろう。当初は孫の制服の衣替えを楽しみにしていた祖母は、文化祭のライブの舞台に駆けつけた際に、自分の期待を負わせた制服ではない「ロック」な身なりで熱唱する孫の姿を見て安堵したのだから。

他方、ルイは受験勉強をよそに音楽に打ち込んでいたことを告白するが、親がそのことに対してネガティブに反応するシーンは描かれない。バンド活動が終わったら受験勉強に立ち戻ることを宣言した我が子が、そうまでして真剣に取り組んでいたバンド活動とは何なのかを見定めることとなり、ルイの親は離島からわざわざトツ子の高校で催される文化祭のバンド演奏に駆けつける。これによって、ルイの音楽が好きであることは肯定されたことになる。

以上のことを踏まえると、ラストのバンド演奏は、きみとルイが後ろめたさを感じていた「秘密」の肯定、すなわち、罪の「赦し」ということになるだろう。

作中でも本職として聖歌を歌うシスターがかつてバンド演奏をしていたことが明らかにされ、さらに聖歌の拡大解釈がなされているように、3人によるラストのバンド演奏は「聖歌」として機能している。すなわち、「告解」を済ませた3人は、バンド演奏によって「懺悔」し、あるいは「赦し」を請うという意味づけとなる。(ここはあまり歌詞を覚えていないので改めて考察が必要かもしれない)

まとめると、映画『きみの色』とは、罪の告白によって青春を終わらせる作品であるだけではなく、罪を告白した相手からの罪の赦しによって青春が終わる作品でもあることになる。自らの罪の赦しを請う相手が観客として出席してくれたラストのバンド演奏とは、この二人にとって華々しい青春の終わりを意味するのだ。

トツ子という謎

さて、きみとルイについてはこれだけ言及できたが、最も言及しにくいのは人の「色」が見えるという「秘密」を抱えた主人公のトツ子である。確かに、きみとルイが秘密を告白しても相手から否定されなかったように、トツ子もまた、同じバンド仲間である二人に打ち明けても否定されることはなかった。その点では、3人は共通しているといえる。

しかし、トツ子は「秘密」を抱えることによって後ろめたさを感じているわけではない。きみとルイに「秘密」を告白しても、その二人の秘密の告白ほどシリアスなトーンはない。きみとルイが罪の告白によってその赦しを得ているとすると、トツ子は2人とは対照的な存在となる。トツ子は自分の個人的な秘密に対して「罪」というほどの罪悪感は抱く必要はなく、その代わりに「赦し」というほどのものも得られないのである。

とはいえ、作中の冒頭でトツ子が観客のみに明かした「秘密」を、終盤できみとルイに告白することで、物語の構図が見えやすくなった効果は認められるだろう。つまり、トツ子の「秘密」と「告白」は、きみとルイの物語に枠組みを与えていると見ることができる。

もっとも、これでもまだトツ子の位置づけは不十分かもしれない。別の視点から語る必要があるとするならば、「秘密」の性質の違いだろうか。きみとルイの秘密は、祖母や親からの期待にどのように対処するかの問題だが、トツ子の秘密は誰かの期待をきっかけとして生まれたものではない。つまり、トツ子の秘密はそもそも罪悪感を抱かず、赦しを得る必要もない、自己完結した「秘密」ということになる。言うなれば、きみとルイが「二人称」の秘密を抱えているとすれば、トツ子は「一人称」の秘密を抱えていることになる。

ここまでの議論を踏まえると、きみやルイとは対照的に、トツ子は青春が持続するキャラクターということになるのだろう。故に、きみとルイに焦点を合わせれば『きみの色』は罪の告白によって青春を終わらせる作品であり、罪を告白した相手からの罪の赦しによって青春が終わる作品でもあるが、主人公であるはずのトツ子には該当しないことになる。トツ子はまだまだ青春が終わらない主人公なのだ。

ここでタイトルを思い出してみよう。『きみの色』というタイトルは、ある主体を視点とした二人称所有格の色であるから、そもそも一人称の秘密を抱える主人公は当てはまりようがないのである。

あるいは、次のような見方もできる。これまで他人に「色」を見ていたトツ子は、「秘密」の告白と文化祭のバンド演奏を終えた後で、かつて諦めたバレエで学校の中庭を舞いながら、初めて自分の「色」を見つける。これまで自己完結していた「秘密」を他人に打ち明けることで肯定されたトツ子は、挫折したバレエと同じように、自分でもその特色を肯定できるようになり、曖昧な状態から自己を確立することで自らの青春を終わらせた。そのような「希望」をほのめかすラストであると見ることもできるだろう。

さらに別の見方をしてみよう。作品の中盤でトツ子は、すでに退学したはずのきみを寮に侵入させて、明らかに校則に違反する「秘密」のお泊まり会を楽しみ、それが露見して罪を告白する。物語は3人の抱える秘密の告白をゴールとしていと先に述べたが、主人公のトツ子は、この段階で部分的に「青春」を終えていたといえるかもしれない。

つまり、突然退学してしまった憧れのきみとの高校生活に未練があったとして、それが禁断の「お泊まり会」につながったならば、罪の告白によって、もはや学校にとって部外者でしかないきみの位置づけがようやくトツ子の中で確定するのである。これ以降、無断できみが侵入することはない。自分の慕う相手のいた高校生活から、それを失った高校生活に移行した事実を受け入れることが、トツ子にとって青春の部分的な終わりだとすれば、トツ子はラストの「秘密」の告白と最後のバンド演奏によって二重に青春を終わらせたことになる。

おわりに

罪の告白という点から映画『きみの色』の整理を試みたが、主人公・トツ子の位置づけが歯切れの悪いものになった。無念ではあるが、一度きりの鑑賞で言及できるのはこれが限界である。是非ともコメント等で指摘や考察を賜りたい。

映画自体は率直に言って山田尚子の歴代監督作品の中でも特に山田尚子監督のエッセンスが濃厚だった。オリジナル映画であるこの作品で、この監督の作風が明確になったといっても過言ではない。

『けいおん!』や『映画 聲の形』や『リズと青い鳥』にはすでに原作があった。『たまこまーけっと』はオリジナルアニメではあったが、企画・原作は京都アニメーションであり、どこまで監督が作品のテーマやコンセプトやプロットの核心部分に介入できたのかは明らかではない。『平家物語』はオリジナルアニメであったが、古典作品とアニメを調和する必要から、作風には一定の方向性がつきまとうことになった。以上の作品とは対照的に、原作を持たず、構想段階で監督が提言できた『きみの色』はそのような制約からは自由なはずである。

詩文のように「引き算」を重ねて、画面に無駄な表象を一切登場させないストイックな姿勢で理論的に映画を制作する山田尚子監督が、初めて自身の「色」をこれまでにない純度で明示したモニュメンタルな作品が本作である。このまま上映館を減らして埋もれていくにはあまりに惜しい。広く見られることを望む。


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