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#3.時間概念の欠如について 『ケーキの切れない非行少年たち』 (宮口 幸治)を読んで

「時間の概念が弱い子どもは”昨日””今日””明日”の3日間くらいの
世界で生きています。
場合によっては数分先のことすら管理できない子どももいます。」
 
(3章「想像力が弱ければ努力できない」の項)
http://www.flierinc.com
・・・この項では、軽度知的障害による時間概念の欠如により、
未来の予定を立てて行動する習慣を構築できない、日々の行動がその後の人生にどう繋がっていくのか想像することすら出来ず、想像が出来なければ努力をすることが難しい・・・
という事が書かれています。実は、それ以外にも日々の生活に与える影響は計り知れないのです。

前項から引き続き、時間の概念の欠如により起こりうる事例をあげます。


“時間の概念が欠如している状態“について、一般的に想像がつきにくいです。
当たり前すぎて “それが無い人が居る“ と言うことは知られていないのではないでしょうか。

時間の概念は「5感」にこそ含まれていませんが、障害と認められても過言ではない程、日々の生活に与える影響が大きいです。
時として、目が見えない、耳が聞こえない、言葉が話せない、と同等とも思えるほどの支障があります。

時間のゆがみ


実際に、時間の概念がないことで、どのような支障があるのか!?
少しでも参考になればと思い、なるべく詳細な実例を記載していくことにしました。

事例6:数分先の予測が出来ない

ひろ江 :37歳
次女  :10歳

ある冬の日、ストーブの石油がなくなったので、ひろ江は石油を注ぎ足した。
石油缶の蓋をしめる際、蓋は水平ではなく斜めに被さったので、閉まらない。
蓋を水平に置きなおせば簡単に閉まるのだが、ひろ江は斜めになった蓋を力づくで締め上げた。
当然ながら蓋は閉まらない。

”ひろ江は2階から大工道具を持ってきた。
中から金槌を取り出し、金槌で石油缶の蓋をガンガンと叩いた。蓋は変形して奥へ引っ込んだ。
当然ながら、蓋は元に戻らず開かなくなった”

空かなくなった蓋を見て、ひろ江はホームセンターへ行きスパナを買ってきた。スパナでこじ開け、蓋はようやく空いた。

ひろ江と金槌


その場に居た次女は、一部始終を見ていた。未だ10歳だったが、強烈な光景だった為、この光景を忘れることはなく、母の異常さを改めて意識するようになる。成人してからも決して忘れることもない光景である。

一部始終をみていた次女

ある日、母親にこの時の事を覚えているか尋ねてみたところ、ひろ江は覚えていたが 
「蓋を開ける為に金槌で叩いた」と言う。
「開けようとしたのではなく、閉めようとして叩いたのでしょう」と言い直しても「開けようとした」と言う。「開ける」閉める」は反対の語彙であるが、ひろ江は語彙の間違いに気づかない。

又、「蓋は開いたのだから、結果オーライじゃない」と言うのみで、自身の異常さに、気づくことは無い。他の多くの例と同様、ひろ江は何かの事例から学びを得て、次に繋がることは無い。

考察:
ひろ江はこの時、“蓋を閉める方法“ として、“金槌で蓋を叩く”という選択肢をとる。
金槌で叩けば蓋は変形して元に戻らなくなることまでは、予測していない。2~3分先の事が予測できていない状況である。

小学校1年生でもおそらく、金槌で蓋を叩いたらどうなるか予測できる。
この事例は、ひろ江が数分先を予測できない事に起因するが、問題解決能力の低さもあるのではないか。両方なのかもしれない。

もしかすると、ひろ江の知能レベルは5歳以下ではないかとも思えてしまう。

結論:
時間の概念の欠如により、ひろ江が日常生活にどれくらい支障をきたしているのか、計り知れない。

しかしながら、ひろ江はほとんど社会参画することなく、閉じた環境で生活している為、指摘される機会もない。世間の人はひろ江の障害に気づかない。
或いは、気づく機会があったとしても、関わりたくないと思ったかもしれない。


ひろ江の母親、兄弟、姉妹はどの程度、ひろ江を理解していたかは不明である。年齢が離れた末っ子をどう見ていたか、今となっては判らない。


ひろ江の夫であるタカシは、ひろ江の特徴を障害ではなく、性格だと思っている為、日常的にすごい剣幕でひろ江を怒鳴りつけていた。

「人間は頭で理解できるが、お前は頭では理解できないから、家畜のように鞭で引っぱたき、身体反射で覚えさせれば、習得するのだろう」
と辛辣な言葉を吐いていた。

時折、「死んじゃったらどうだ」と言うこともあった。心底呆れていなければ出てこない言葉である。

家庭の中は怒鳴り声が絶えず、もはや家庭とはいい難い場所だった。


タカシがひろ江の障害を気づいていたなら、状況は少し違ったかもしれない。社会資源を活用できたかもしれない。ひろ江にとっては、怒鳴られながら暮らすよりも、障害者として暮らすほうが幸せだったのではないだろうか。

知的障害があれば、時間の概念だけが無いという訳ではなく、複合して出来ないことがある。社会生活はもとより、母親業は困難である。


子供達には”母親”が必要だった。子供が10歳を過ぎた頃には、ひろ江は子供の会話についていくことが困難になっていた。
複雑な話は理解できず、会話も3文節程に短く区切り、ゆっくり話さないと、ひろ江は聞き取れず何度も聞きなおす。

同じ話をかみ砕いて繰り返せば、話を最後まで聞ける。しかし内容をどの程度理解できているかは不明である。
話を最後まで聞けたとしても、母親としての意見を言ったり、必要に応じて助言や、問題解決へ導く、等のアウトプットは無く、聞いて終わりである。

次第に家族は、口が重くなり、ひろ江に話かけなくなる。ひろ江と話す際はトピックを選び、ひろ江が理解できる話をする。紙芝居のような単純明快でひろ江が意見を言う必要のない話をする。しかしながら、そんなトピックが常時ある筈がなかった。


必然的に家の中は暗くなり、機能不全の家になった。
夫タカシの怒鳴り声だけがいつも、響いていた。

何故、早期に障害に気づく方法が無かったのだろうか。当時はスクリーニング方法も今とは異なる。それにしても、これほどの障害に気づく方法は無かったのだろうか。近しい人も気づかないものだろうか。


時間の概念の欠如による支障は、人生終焉になるまで分単位で続く。その家族へも影響を及ぼす。

これほどの障害をスクリーニングできる方法があって然るべきである。近い将来、出来ていることを切に願い、その為にもこのブログでは情報を発信していくつもりである。

知的障害であれば、障害は時間概念の欠如のみに留まらない。ひろ江のように、複合した障害が重なっている。

事項ではそれについても、述べていきたいと思います。

(次項へ続く・・・)

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