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「僕が夫に出会うまで」の所感

 この本のあとがきにこんな一説がある。
「僕は最近、三十一歳になった。この本は、僕の記憶が鮮明なうちに自分の過去を何かに記しておきたいと思い、書き始めた。」
 世間的に見て、三十歳というのはそういう節目なのだろうか。それに似た所感をほかのエッセイでも時折見かけることがある。
 近年、LGBTQの話題が熱い。この話題がテレビや雑誌に取りあげられない日のほうが、いまや少ないのではないだろうか。発信される情報もどんどん増えていき、それこそ七色の虹という一言では表せられないほど多様になっているようにも見受けられる。
 しかし色が豊かになり市民権を得るにつれて、その色を受けつけられない人間の存在も炙りだされる。特にネット上の匿名の意見が台頭しているからか、つまるところ、LGBTQを受け容れられないひとはただ単に狭量なひとだというように、逆差別をしているのではないかと危惧したくなるような意見を目にすることもある。もはや誰が誰を差別しているのか、差別の応酬ともいえる有様は混沌としていて目を覆いたくなる。実際、このテーマの本に手を伸ばす機会は、十年一昔という言葉のごとし、激減していた。
 しかし全く読まないというわけでもない。本好きの性だろうか、数は減れども気になる本があれば手を伸ばしてきた。
 いままでにLGBTQを扱った本はいくつか読んできたが、いささかまじめすぎた印象を持つ本が多かったように思う。もちろん当事者には救いになるし、共感もあるだろう。当事者でなくても、世間一般の価値観を信じて疑わない人(結婚をして子供を育てて……という価値観に埋もれている人)にだって、LGBTQの方々の経験や価値観は人生の啓示になり得る可能性ももちろんある。
 しかしまじめすぎるが故に、特に当事者が紡がれた本の中には、自分たちが「差別されないために」「より差別のない世界を目指して」と高い志のもと、自らが行っている活動の紹介をされているものがぽつぽつと見受けられた。少なくとも自分はそう捉えた。だからだろうか、「当事者の生き方や経験、そこで得た感じ方や捉え方をもっと知りたい」と、大げさにいうなれば「本を通じて人間を知りたい」と願う自分には、物足りなさに似た寂寥感も抱いていた。私が知りたいのは残念ながら高邁な活動そのものではないのだ。
 もちろん過去のつらい経験から、LGBTQの地位向上を目指す活動をすることにした、それはすばらしいことだ。しかしそのような活動ができるのは、いまはインターネットの普及等でだいぶ変わっているかもしれないが、やはり都会のごく一部の人間なのではないかと、田舎育ちの自分は訝しんでしまう。ニュースで採りあげられるパレードも行われるところはだいたい東京の大都市だ。
 都会にいたとしても行動できる人はほんの一握りだと思う。きっとほとんどの人間はこの問題のみならず、何かに疑問を抱いたとしても、その疑問に蓋をして見ないふりをして生きていくだろう。自分もその一人である。しかしこの『僕が夫に出会うまで』は、これまで読んできた、LGBTQを扱ったほかの著書とはずいぶんと趣が異なっていた。
 この本は七崎良輔さんという、一人の人間の生き様がこれでもかと、ときには目を覆いたくなるほど赤裸々に描かれている。七崎さんはセクシャルマイノリティーのためにウェディングの会社を立ち上げて活動されているようだが、その話がこの作品ではほとんど出てこない。ひたすらこれまでの自分、そして素敵な旦那様に出会うまでの軌跡を綴っている。しかも平易な、やさしい言葉で。その潔い姿勢に感銘した。
 七崎さんはゲイであり、いまでは素敵な旦那様もいる方だから、描かれていることはゲイならではの体験も多いと思う。しかし恋愛にまつわる多くの経験は、果たしてゲイ特有の経験といえるだろうか。ゲイ特有の経験……こう書く自分にこそ、彼らを差別する刃の兆しが芽生えているのではなかろうか。読み終えて、ふと、そう考えこんでしまった。
 人を好きになり、つきあい、愛する過程は、果たして同性同士、異性同士で何が異なるのであろうか。そもそも論として、ひとを好きになるのは、その相手だからこそであって、その人の性別は果たして考慮されるのだろうか。私にはその考えが常にある。だいたいにおいて性別に拘泥するということは些末なことではないだろうか。死んでしまえば、性別すら判断できない骨になってしまうというのに、その骨を着飾る上っ面に振り回されるというのも、どうかしているというのが率直な思いだ。
 七崎さんは自身の人生をまっすぐに謳歌している。まっすぐすぎるが故に、大丈夫かと目を覆いたくなる壁にもたくさんぶつかるが、泣いて、悩み、そして立ちあがり前に進んでいく。その潔さはいまこの国を覆う閉塞感を突き破ってくれるのではないかと期待したくなるほどにすがすがしい。
 とくに好きなシーンが二つある。ひとつは七崎さんの高校のエピソードで「アズの穴」というエピソードである。小学校、中学校とつらい思いをすることが多かった七崎さんは、高校では多く個性豊かな仲間に恵まれ、それこそ青春を謳歌する。もちろん悩みも尽きないのだが、この話は実に高校生らしいエピソードで笑える。授業をサボるにも、隠れ場のトイレは極寒(七崎さんは北海道の出身である)。おでんがあれば温かく過ごせるだろうと、トイレの窓からコンビニ行きを企てたのだが、大柄の女の子のアズが失敗して雪穴に落ちてしまい授業をサボるどころではなくなるいうオチだ。こういう経験に同性愛者も異性愛者もない。そこにあるのはごくごくありふれた高校生のひとこまだ。
 もうひとつはカミングアウトのシーンである。彼の場合は、女友達が彼氏に振られてしまい、その愚痴を聞いているうちに、自分が経験してきた報われない思いが爆発してしまい、それがカミングアウトとなってしまった。自分でも予期せぬ展開に「しまった」と思ってしまうが、それを聞いた女友達は「ほんとうの七崎さん」を無条件で受け容れる。(このシーンは多くのひとに読んでほしい。友情とは何か、相手を理解するとはどういうことか、その答えがあるように思えてならない)
 ひとは異質であることを突きつけられると、おそらく固まる。どんな反応をしたらいいのか、判らなくなってしまう。不倫をしていた、中絶した、中絶させた、破産した、事故をして相手をけがさせた、大病をした……、大切な人からいきなり自分には縁遠いと思われていた事柄を聞かされたとき、果たして自分はどんな行動にでるだろう。とっさに七崎さんの友人であるあさみさんや映里さんのような行動、言動が永続的にとれるだろうか。
「自分と相手は違う」これは何もセクシュアルな問題だけではない。たまたまいま、この時間を私たちは「普通」に過ごしているだけで、いつなんどき、差別し、差別され、周囲の無理解に苦しめられるか判らない危うい綱渡りをしながら生きている。しかしそれでも人生は続いていくし、否が応でも突き進んでいくしかない。そのことをこの本は全力で伝えてくれている。
 七崎さんはあとがきに、こんなことを書いている。
 今、福士先生(七崎さんに心ない言葉を投げつけた先生)に会うことができたなら、僕はこう言おうと決めている。「おかげさまでこんな素敵な大人になりました!」と。
 ここに彼の愚直なまでのひたむきさが光る。
 一冊の本で笑い、考えこまされ、ときに目頭が熱くなるような、感情がついていけないほどせわしい本にはずいぶん久しぶりに出会った。これは「カミングアウトしたゲイの一人」が書いた本としてではなく、「山あり谷ありの人生を精一杯謳歌した若者」の一物語として、より多くの人間に届くことを、一読者として願わずにはおれない。

#読書の秋2021 #僕が夫に出会うまで

#文藝春秋

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