好きな小説家のサイン会に行く前の回想③
当時、自分が通っていた図書室にはライトノベルがかなり陳列されていた。いまでこそライトノベルやアニメは大きな市民権を得ているが、当時としては珍しいことだったと記憶している。
いまとなってはある市立図書館に足を運ぶと、文庫本コーナーにも普通に並べられていたりする。さらに漫画も、結構スペースを割いて並べられている。 (漫画やアニメは日本の文化といわれながら、こういう書き方を平然とできるあたり、小説や文芸の地位は高すぎるのか、漫画やアニメの地位は低すぎるのか、つかの間考えてしまった。しかしそれは本筋ではないので割愛。もちろん差別するつもりは毛頭ない)
この状況は、20年前ではあまり考えられないことだった。少なくとも自分のまわりでは。当時通っていた高校の図書室の風潮、ライトノベルや漫画を陳列するのは、どう考えても珍しかったのではないだろうか。あとから聞くところによると、司書の先生には当然、図書室に人を呼びこまねばならないノルマみたいなものがあり、苦肉の策でそうしていたらしい。
司書教諭の葛藤はきっと深かったのではないだろうか。この司書教諭が学生だった頃は、おそらくライトノベルなるものはほぼ存在しなかった。だから急に台頭してきた、奇抜なその存在をどのように扱えばいいのか苦慮したはずだ。ぼくたちも若い世代が傾倒する、新たな何かが出現した時は首を傾げるだろう。きっとそれに似た感覚だ。歴史は繰り返される。立場を変えて何度でも。
少なくとも自分は、小説に関してはこの司書教諭の葛藤は寄り添っていた考えの持ち主だった。文庫本で「おりゃあああああああああ!!!!」と叫び声を地の文ではなくて文字の大きさや量で表現したりとか、擬音語が突然大きな活字で示されたりとか、やたら疑問符、感嘆符が連続されている文章などは、正直なところ受けつけなかった。そこは地の文で、多少回りくどくてもいいから、説明したり、補足したりしてほしいと考えていた。そしてその考えは、もちろんいまも変わらない。
こういう新たな潮流を当時から受けつけていたら、きっといまはまた違う読者人生を過ごしていたかもしれない。しかし当時は小説=文学の概念が強かったので、この風潮を受けいれることはできなかった。それ故に、同年代が活躍していそうなあまたのライトノベルには手を伸ばすことはなかった。
ところがいまは大衆文学とライトノベルの境界が、曖昧になっている。実際にライトノベル出身者が、大きな文学賞を射止めることも増えてきている。ひとえに著者の力もあるだろうが、この垣根は着実に低くなっている。その流れに読者として、リアルタイムで潮流に乗るチャンスを逸してしまったことは、いま思うとやはり損をした感はぬぐえない。
実際のところ、20年前の40代に比べたら、いまの40代は、アニメや漫画がすきといっても、昔ほどは驚かれることは少ないはずだ。考えてみてほしい。いま40代の人が、20代だった頃、40代の人が「アニメの〇×がすき」という人と出会ったとしたら、どんな目で見つめていただろうか。どう感じていただろうか。……もしかしたら、小説のジャンルの垣根のみならず、もしかしたら、大人と子供の境界線すら、この20年でぼやけてしまったのではないだろうか。そんな一抹の不安すらよぎる。
しかしそれは当たらずとも、遠からずではないだろうか。
いま40代の大人たちが、リアルな青春時代を生きていたころに放送が開始されたアニメ作品は非常に多い。忍たま乱太郎は放送30周年を迎えたし、『名探偵コナン』もほぼ毎年新作映画が公開され、当時はすぐに打ち切られるだろうと冷ややかに見られていた『クレヨンしんちゃん』も、一部では泣ける映画として有名になっていたりする。
きっとほかにも、いまの40代が青春真っただ中を過ごした時代に始まった作品で、いまなお続き長年愛されている作品は多いだろう。アニメがすき、漫画がすき、ライトノベル最高という40代は、つくづく恵まれている。時勢としてはロスジェネだ、氷河期だとろくな括られ方をしないが、この世代は文化的な側面においては、あらゆる面で黎明期からの進化をリアルタイムで俯瞰できている稀有な世代だと勝手に自負している。ロスジェネも悪いことばかりではない。ただ悪いことが多すぎて、小さな宝石の光がくすんでいるだけだ。
しかしぼくが高校時代に40代を生きていた方々から見て、子供の頃から続いている番組なり、本のシリーズなり、そういうものというのは、はたしてどれほどあるだろう。確かにドラえもんやサザエさん、世界名作劇場、いくつか挙げることはできるが、いまの40代よりはきっとはるかに少ないだろう。それは漫画やアニメだけではなく、歌い手や書き手、あらゆる分野においてそうだろう。
それが良くも悪くも、いま生きる人間が、20年前を生きていた大人と比較するとはるかに成熟の度合いは劣っているのではないか、その境界線があいまいなのではないかと感じてしまう所以である。実際、自分も、何か書類に年齢を書くときに、こんなに歳を取っていただろうかと考え、フリーズしてしまう幼稚な人間の一人である。