その名前を私の祈りにしたいから

イントロ


ガールズバンドクライ、というアニメをご存知だろうか。
このアニメは、まあ昨今基本的にそうだが様々な要素が含まれている。
私が語るなら、百合要素となると考える人が多いと思うが、残念ながらそこではない。
いや、厳密には百合要素なのだけれど、このアニメにおける百合、つまり女の子同士の思いとは恋愛感情ではないのだ。
超越したのだ。
すごいよね。
で、執筆時点でも私が愛するMyGO!!!!!との対バンが決定し大ガールズバンド時代の無路矢を上げていたりといろんな展開が広がっているわけですが、過去に私がTwitterで共有したように、特に終盤の展開について賛否が分かれているのだ。
今回はその点について私なりの解釈を述べつつ、私にとっての音楽について語っていこう。

一番

Aメロ

私は井芹仁菜が好きです。
円盤は流石にちょっとどうなん? ってスタイル(というかアニメの円盤、特典とかで金かかってるのはわかるのだがもう少し安くてもいいんじゃないだろうか。こう、私は映像を保有しときたいだけなんだよね。最近は文庫本も値上がりが激しいですが。新書だともう少し高い。独占配信されていつ切れるかわからない、とかまじでどうなんだ)
だったので仁王像の方のフィギュアを購入しました。届くのが楽しみ。
金剛力士立像も興味あるんですがね。

前提として、私は対立煽りをしたい訳では無い。私の大好きなニーチェ曰く「軽蔑する敵ではなく、憎むべき敵を作れ」とのことだが、
私が憎むべき対象は、基本的に私だけである。それ以外の憎しみに実効性はない。
よって対立煽りには何ら意味はない。
今回私がこれを完成させるきっかけになった記事について、著者様本人から引用の許可を頂いたきました。
私は音楽の歴史やロックについてなかなか無知であるため、ロックンロールや反社会と言った、特に序盤のガルクラに多く含まれていた要素に関する解釈について、このブログの影響を大いに受けています。
この場を借りて感謝を。

社会に反旗を翻すジェスチャーを元にした独自の符牒を創造することで、真に「社会への反抗」を表明したのだ。

この「小指」ジェスチャーの構造的な美しさ、伝わるだろうか。
どうか、身震いするようなこの美しさが伝わっていると良いのだけれど。



確かに暗黒大陸じゃがたらやINUのような、ロックらしいパンク魂や先鋭性をトゲナシトゲアリの楽曲からは感じない。まぁ流石にね。

あれだけ「売れ線vs俺らのやりたい音楽」みたいな図式を強調しといて、実際のところは随分と、売れそうな曲調じゃねーかとは思うし。

『MASS対CORE』みたいなメッセージ掲げておきながら、その実コンテンツ自体が「リアルバンドもの」とかいう「MASS」の極地じゃねーかよ、とも思う。

立て続けの和解によって、ニーナの「せからしかー!」という怒りをぶつける先はどんどん萎んでいく。

終いにはライバルバンド・ダイダスに対バンの売り上げで完敗したというのに、ライブ終わり笑顔なんか浮かべちゃったりして。なんなんだ

絶対に負けたくなかったはずなのに、負けてなお笑顔で小指を立てる。このグロテスクさ!

「家族とはどこまでいっても理解し合える」「学校の友達はなんだかんだあってもズッ友だ」なんて言いたげな、どこにでもあるような家族/学校賛歌。

父親がなんかいい人オーラを出してきたときも、元親友のダイダス現ボーカルが、安易な百合の構図に落とし込めそうな安っぽい「ケンカップル」オーラを出してきても……

決して皆ほど熱く本作についてツイートしていたわけではないが、心は真っ赤に燃えていた。ニーナやったれ!!!と。

終わり方が特に重要な作品だろうなと思っていたから、このままなんとか最後までロックンローラーとして駆け抜けてくれないだろうかと。



そんな希望を託していたもんだから、父親と和解した瞬間も「俺はコレ、何を見せられてるのかしら?」という気持ちになった。
最終話なんて、もう祈るような気持ちで観ていたが、その祈りも届かず。

私が要点だと思った部分を、国語のテストなら40点くらいの形で抜き出してみた。
意図的に私がこちらのブログ(以下、『鳴り止んだ』)を「私の主張に反してガルクラ終盤を疑問視するもの」として扱っていることは事実であるため、是非とも全文に目を通していただきたい。

私がこのブログを拝読して、最初に浮かんだ感想は「なんかそれ、具体的には6日前くらいに抱いたな」でした。
……特定の作品を上げるために特定の作品を下げるということはあまりしたくないですが、性質上比べられるのも仕方がない場合もあります。

2024年春クールは、大ガールズバンド時代の魁といえるクールでした。
川崎のガールズバンド、渋谷の厳密のガールズバンドではない団体、フルで歌わせてもらえなかった軽音部系ガールズバンド、未視聴ですが逮捕者が出たらしい岐阜? のガールズバンドなどなど。

ガルクラの対抗馬として注目されていたのは、渋谷の厳密にはガールズバンドではない団体のアニメです。
前述の通りこのブログはガルクラについて語るものなので、名前を出すことは避け「渋谷クラゲ」とするが、推測するに藤吉氏が『鳴り止んだ』を執筆したのと、だいたい同じマインドでこのアニメを追っていた。
自己肯定をテーマに、百合とフェチなサービスシーンを描きつつ、潤沢な楽曲を売り込むおしゃれアニメとして私は渋谷クラゲを追いかけ、
そして5話のキスをピークになんか思ってるのと違う話が続いて、
終盤は「頼むから誹謗中傷とかそういうのへの否定じゃなくて、お前たちの好きの肯定を見せてくれ……」と”祈るような気持ちで”見ていたわけです。
結局、11話までで俗世間に「普通って何だよ」と、それこそ中指を立てて周り、最終回で突然青春百合音楽アニメとして終わりました。
結局、承認欲求やら生きづらさをテーマにした作品が私に合わなかったというだけなのでしょう。
5話までは正直ガルクラと同じくらい好きでしたし、それは嘘じゃないのですが、結末に納得がいかないという意味では藤吉さんと同じ思いを持っていたということです。
なのでおそらく、同じアニメを見て終盤の展開への印象が違うのは、
好み以外の問題が影響しているのではないかと考えました。
それ故、この2つの「ロック」と「百合」という視点からガルクラを分解しようとする事で、なんかいい感じになると思ったのです。
極めつけに、アイコンが藤和エリオなんですよ藤吉さん。
藤和エリオ、一昔前のライトノベル原作アニメ戦国時代においても、ギリギリ異質、手乗りタイガーよりある種凶暴なヒロインです。
そんな藤和エリオが好きならば、きっと好みはそんなに違わないと思ったんですよ。
ではなぜ私のゼストは運命の華として鳴り止まず、藤吉さんの井芹仁菜のロックンロールは鳴り止んだのか?

Bメロ

私の回答はこうだ
「ガールズバンドクライは井芹仁菜の物語であって、ロックンローラーの物語ではない」

実際、最終話でロックンロールが鳴り止んだというのは、そうだ。

ニーナを語る上で、ことすばるちゃんとの和解前までに顕著な暴力性は、外すことは出来ない。
一話でこそ吉野家の店員に中指を立て、川崎の危ない人達から逃げ回って一緒に演奏したくらいだが、二話では「せからしか!」と叫びサラリーマンの頭上にシーリングライトを振り下ろし、三話ではすばると叫び合う。
なるほど、これが本来のニーナで、物語が主人公の成長譚であるならば、
父親と和解し、スマホも破壊できず、絶交した親友と和解したニーナは明らかに「弱く」なった。丸くなってしまったと言える。
(ちょうど5話でキスしたのに何の進展も無かったように)

ここで私が疑問に思うのは、ニーナの本質は果たしてロックなのかということだ。
私もロックの知識はないが、こう、「反社会」「反体制」「反資本主義」まあつまり、「反動」の文化だと捉えている。
ではニーナはどうだろう。
彼女の行動原理は「間違ってないことを証明する」である。「正論モンスター」である。
恐らくガールズバンドクライ終盤の展開に満足が行かなかった人がいるのは
「正論モンスター」=「反社会」=「ロック」だと考えたからだろう。
恐らくこれは違う。
とりあえずニーナの反社会的な行動を列挙しましょう。
記憶が怪しく、流石に前置きのために全話見返すのは今数学で忙しいので順不同で勘弁してください。
前項と被るが、ご承知を。
・放送室占拠
・「せからしか」と叫び、通行人の頭上にシーリングライトを振り下ろす
・飲食店ですばるちゃんと喧嘩
・予備校サボりまくり
・居酒屋で桃缶と喧嘩
・ダイダスのライブに対し大量のトゲを放出、「クソが死ね」と発言
・予備校やめます
・サービスエリアで桃缶と喧嘩
・ダイダスに小指を立てる
・トラックの前に飛び出す
こんなもんでしょうか。ニーナを「狂犬」と呼ぶ風潮も、それを嫌う層も知っていますが、「瞬間瞬間を必死に生きている」という意味では狂犬といって差し付け替えないです。
しかし、この「狂犬」という言葉も、ニーナを誤解させるのに十分でしょう。
ニーナは、別に社会なんてどうでもいいんです。
これら全ての行動は(本人の供述通り)「自分が間違ってない」ことを、自分や自分の歌に証明するための行動であり、そこに他者からの承認は介在していません。
これは「負けてない」というのもそうで、これはバロンじゃないですが「諦めてない」ということではないでしょうか。
「私は自分を貫き通しているぞ」ということの、別の出力ということです。
「井芹仁菜という判断基準」が存在し、それを阻害したり、味方の振りをした(と、考えた)「敵」を排除する。
このマインドはどこまでも狂犬的です。
故にニーナはロックの化身でもなければ、暴力マシーンでもありません。
彼女はどこまでも真っ直ぐで、邪魔だったので破壊しているだけなんですね。
もちろん彼女も人間ですから、怒りも喜びも悲しさも感じるでしょうが、
「嫌いなヒナがダイダスに居るから潰す」とか「桃香さんの曲を評価しない人間は全員死ね」とか、そんなことにエネルギーを使いません。
トゲは全て「井芹仁菜」を貫き通す為に消費されます。
全部、バンドにぶち込むんです。
井芹パパ、ヒナとの和解もそうです。
別に彼女は彼らに怒っていても、恨んでるわけじゃないんですね。
「校内で暴力事件に巻き込まれた時に、助けてくれなかった」
という点において、味方ではない、自分の信念を邪魔しかねない存在であるからなわけです。
この、ニーナの本懐が「ロックンロールが鳴り止んだ理由」です。

サビ

ガールズバンドくらいとはどのような物語だったのでしょうか。
「井芹仁菜と仲間たちが、自分達を貫く」
私はこう表するべきと考えます。
ガルクラ本編で使われる「ロック」は場面によって様々なニュアンスが込められていますが、井芹仁菜は井芹仁菜であって、ロックンロールは手段です。
だから井芹パパと和解できて、ヒナが、本質的には親友であるということが理解できたニーナにとって、反社会ロックンロールによる攻撃はもう必要ないんですね。
運命の華とは、(時系列こそ前後しますが)井芹パパ、ヒナとの和解を経て、自分自身を愛せるようになった井芹仁菜の歌でもあるんです。
だから、反社会ロックンロールは鳴り止み、仁菜/桃香の歌ロックンロールは鳴り止まない。

悲しみで花が咲くものか

サンボマスター/世界はそれを愛と呼ぶんだぜ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?