パンツというニヒリズム
……結論から言わせてもらおう。パンツとは、美に至る過程の流用だ。
文脈を暗示し、そこに眠る本懐を導く
それがパンツである
意味不明に聞こえるかもしれない。
だがこれは以前の記事「スク水の意志」から連綿とつながる私の創作のテーマにおいて非常に重要なことなのだ。
スク水と同様に、パンツも文化的背景と物自体とで2つの意志を持つ。
タイトルの「ニヒリズム」というのはこの内、文化的背景に依拠するパンツの美しさだけがクローズされその本懐が失われつつあることへの警鐘でもあるのだ。
説明していこう。まずは「文化的背景」から。
文化的背景
文化的背景とはつまり「下着が見えることはえっちなことである」という前提条件の共有によって生まれるパンツの魅力である。
典型的な例で言えばパンチラだろう。
言ってしまえば布が見えているだけ、マイクロビキニとかのほうがよっぽど露出が多いハズなのになぜえっちに感じるのか。
答えは至ってシンプルである。
それが「隠したいもの」だからだ。
たまたま人間社会の共通意識としてパンツをその「隠したいもの」の筆頭とすることが出来ただけで、その本質は「対象の思考の内側を覗き見て理解する」ことにほかならない。
心があけすけになるのは誰だって嫌だろう。
つまり、パンツとは心であり、魂なのだ。
人間とは蓄積された経験に基づく意思決定そのものが本質である。
ならば「自分で選ぶことができ」「その幅も広く」「普段隠している」
という意味でパンツは、裸よりもその人間を表しているのだ。
そしてこれが「文化的背景」でありパンツの「物自体」でない理由も説明しなければならない。
先ほど「たまたま〜ほかならない。」と書いた通り、別にこの事象はパンツに限った話ではない。
例えば耳である。
ちょっと一次ソースが見当たらなかったが「耳を隠す生活圏にいると、耳を性的に感じる」という話をご存知だろうか。
もしくは「バレリーナが脚を出すのは当時ではおっぱい丸出しと同じ」
だとか。逆に「江戸時代まではおっぱい丸出しは別に恥ずかしくない」し「町中で混浴とか割と普通」ということをご存知だろうか。
もっと言えばパンツという存在は鉄砲と一緒に伝来したので、江戸時代までの日本人にとってパンツがエロいというのは完全十二面体がエロいというのと何ら変わらないだろう。
つまり、「パンツは隠すもの」という文化の形成によって現在偶然パンツが、パンチラが性的なものとして完成したのだ。
正直ショートパンツでがっかりするのは同じ理由であるし、冬場の学生がやたらめったら脚をだしてスカートを詰めることに抵抗が無いのはパンツが見えないからだ。
もちろん、スカートの存在も大きいだろう。スカートめくりというかつての因習もそうだが、ブラと違って割と見えるのでね。対策しないと。
私はブラ透けも好きだが、ブラが丸出しということは上半身がほぼ丸出しであり、そこからブラジャーの意志だけを抽出することは困難を極める。
目移りしちゃうのだ。
だからこそパンツが輝く。
着衣のまま全部見えかねないパンツは、なるほど「下着」であり「スカートの下」に履くからこそえっちだ。
だが本当にそれだけだろうか?
物自体について
パンツ、かわいいですね!
私は学生時代、坂道を見上げると眼前に広がっていた水色パンツのせいで水色が一番好きなんです。
他にも白地に赤のリボンがついた通称「杏仁豆腐」
名前があれな以外かわいい「ふんどしパンツ」
手軽に大人っぽくなる「黒下着」
etc……
このバリエーションの多様さはむしろブラよりもおっぱいに近いだろう。
おっぱいは人体の部位の中でも形状の自由が効く類まれな部位である。
あまり身体的特徴を負の方面でネタにするのは良くないので下ネタで中和するが、おちんちんが通常の10倍あったらなんかもうおかしいけれど、おっぱいが通常の10倍はただのアズールレーンである。
男性陣からすると顎が尖り肩幅が増えるのはおかしいが、おっぱいはそうでもない。
そして尻は連動して脚も太くなるが、おっぱいはそうでもない。
……話をパンツに戻そう。
ブラジャーはおっぱいを固定するという目的において結構形状が決まってくるし、同じデザインでもサイズによって全然変わってくる。
HGは微妙なガンプラとかあるじゃん。
一方(尻の肥大化が困難であるというのはそうだが)パンツの自由度は結構高い。
厳密に言えば描きやすい。それだけに描き手の人間としての厚み、生きてきた重みが問われるものでもあるのだ。
結論
そろそろしめとしましょうか。
結論はシンプルだ。
「みんなもっとパンツを描こう。その子の心を見せてくれ」