その判断はどんな念からでてきたものか?●○下田コラム○●vol.100
月に1回20代を中心とした経営者の方々と陽明学の勉強会をやっている。
今月の学びの中で、次の一節が出てきた。
「善悪の判断が、理法的ではなく、恣意的な念である限り、錯誤は避けられない」
つまり、その判断が、道理ではなく自分の私心から出てきたものであるときは、事の結末が悪い方向にいったり、トラブルのもとになったりするということだ。
人事や労務のことでいえば、時として従業員に辞めてもらわないといけない場合がある。
その判断をするときに、それはどんな念からの判断なのかが重要だ。
その従業員が存在することで、周囲が嫌な思いをしている。本人のことを考えた時に他の場所の方が活躍すると思われる。
そんなときが実際にある。
組織は人の集合体だから、その場ではない方がいい時があるのが実際だと思う。
単に気に食わない。
そんな念で辞めてもらうのか。
このときは、恣意的な念が働いているということだ。
恣意的な念で辞めてもらった場合は、その後トラブルに発展したり、他の従業員から不満の声があがってきたりする。
周囲の従業員も「あの人とは一緒に働けません」など言っていたのに、実際に辞めさせたら、「会社はひどいことをする」などというから不思議なものだ。
恣意的な念が絡むと人は判断を誤る。
この仕事をしているとそんな事例をたくさん見る。
陽明学の一節は、まさにこのようなことを言っているのだ。
さらに気をつけたいのが、自分では道理にかなった判断で恣意的なものではないと思い込んでしまっているが、実は恣意的なものであるというケースだ。
このケースが実に多い。
「人間は、自分で自分のことが一番わからない」とはよく言ったものだ。
自分で自分をごまかすように、道理にかなったもっともらしい理由をつくるのであるが、その奥底には恣意的な判断が入っている。
例えば、ある従業員がいることで問題が起きていて、他の従業員に迷惑をかけているというが、奥底にはその従業員のことを気に食わない感情がある。
色眼鏡で見ているので、その従業員の言動がすべて望ましくないように見えてしまっているのだ。
陽明学では、こんな一節もある。
天地には花と草の間に良い悪いはない。花を観賞したいと思う時には、花を良いものとして、その周りの草は邪魔な悪と見える。反対に薬草として草を用いたいときは、草が良いものとして、花は邪魔な存在になる。
そのように人はその時の自分の都合で善悪を決めているだけである。
そんな心で判断をすれば、それは恣意的なもので、判断を誤るというのだ。
一番のポイントはここである。
一見道理にかなっていると思っているものが、本当にそうであろうか?
恣意的なものでないだろうか?
と考えてみることである。
実際にどうすればいいのか。
それは、走っている心を止めて、一度立ち止まることだ。
自分の心に「これは本当に正しいことか?」と問うてみる。その時、どこからともなく言い訳めいた言葉が浮かんできたら、その判断は怪しいと思った方が良い。
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