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三秋縋「さくらのまち」

※本の内容に触れる部分もあります。

2019年頃に繰り返し読んでいたのが三秋縋の『スターティング・オーヴァー』だった。合わせて6回くらいは読んだと思う。彼の文体と物語の型取りは、当時の「恨み」で一杯な日々の中で精神が疲弊していた時期の自分に綺麗に嵌って、他の作品もすぐに読むことになった。

そこから5年経って、(本を読むことじたい久しぶりだが)三秋さんの新作が出ると知ったので、予約して購入した。

時間があれば直すが(こういうときは大抵直さない)、読みながら感じたことを箇条書きにして並べる。

1日目:
本を読むときや歌を聞くときは、「なにか一文でも(一言でも)一目惚れするような言葉や詞があればいい」という基準があるが、6ページ目からさっそくやってきた。なんてことない、美和の「無駄なことを言ってみました」という悪戯っぽいセリフであるが、三秋さんの描く女の子はこうだったなと懐かしく感じた。

2日目:
「サクラ幻想」は、あまりに救いようのない症状である。ときに何かの運命だと思えるほどの都合の良い現実が目の前に現れた瞬間、崖から足を滑らせるように目の前の景色が虚構に成り果てるのだから。「よく懐いてくると思っていた猫は、単にお腹を減らしていただけだった」のような幸せな勘違いの類ではなく、逆に「俺に好意的な人間は全てサクラである」という不幸な幻想に身を置き続けることになってしまう。

3日目:
高校の卒業式を振り返ったとき、「秋の体育祭でジュースを奢ってもらった借りを返すために、あいつにジュースを奢り返してやろう」と思って結局渡せなかったことと、卒業式が終わってから、仲が良かった人とも全く話をせず(もう会わないからと)せっせと帰ったことを思い出した。別に特別なことではなく、結局みんな卒業式はただ寒いとしか思っていないし、泣く理由も特にないだろう。手持ち無沙汰だから中庭で話すやつもいれば、手持ち無沙汰だからさっさと帰るやつもいる。結果として起こす行動の原因となるものは無数に存在しているため、全く反対の原因から、完全に同じ行動を起こすこともある。

4日目(読了):
高校を卒業してからの6年間、友人は0人と呼んでよかった。ただ、1度だけ2人で夏祭りに行った人がいた。そのため、5年前に過ごしたその一日だけが、直近で誰かと遊びに行った最後の思い出になっている。その年に大学に入学してから、風呂に入るといつも「恨み」が湧いてきて、腹が煮えながら、それでもその気持ちを誰かに伝えてはいけないと封をしたままにしていた。そのせいか、数か月たって憂鬱な気分になることが増えた。たぶん、単に(毎日の「恨み活動」のせいで)精神的に疲れたのだと思う。そのときに出会ったが「三秋縋」と、例の一緒に夏祭りに行った人である。こういう偶然のかみ合わせがあったからかもしれないが、当時は「この人と結婚できなければ、もう誰ともしないだろう」と思えるくらい、(自分には)運命の人に見えていた。とはいえ、中高と合わせて6度も恋人関係を終了させてきた経験から「誰かと付き合ったとして、それは1年足らずで友好関係まで絶つことになる」くらいには恋愛そのものを拒んでいたので、好きだのなんだのはついにしないまま、ずっとこの関係性でいたいと思うことに終始した。とはいえ、そこまで思えるような人と毎週A4サイズくらいの文章を交換しながら、夏に一日だけ出かけて水族館や夏祭りに行ったのだから、思い出に残らないはずがない。実際に、何度かその一日を反芻したこともあった。

しかしこの作品では、まず過去の幻想、虚構としてそのような日々があって、最後に「人生で最も貴重な時間だったあのころは、なんの虚構ですらなく、すべて本物であった」と判明するのであるから、「もし初めからそれが本物だと分かっていたら、どんな今があったろう」という気持ちに打ちひしがれるのだろう。

ところで現実は、翌年1月からのコロナで、あの「居心地の良い細さ」で繋がっていた関係性はあっさりと切れてしまい、思い出す機会もどんどんなくなった。たまにコロナのなかった世界線を想像するくらいで、いまは「いかに一人で満足していけるか」にピントを合わせていて、他のものはぼんやりとしか見えていない。

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