BUMP OF CHICKEN試論#003_ガラスのブルース(3)
◆前回のおさらい
前回(BOC試論#001_ガラスのブルース(2))は「ガラスのブルース」という楽曲に3つのクエスチョンを設定した。
Q1:「星になる」とはどういうことか?
Q2:「ガラスの眼」の意味は何か?
Q3:「川に行く」ことの意味は何か?
Q1の「星になる」とは、(肉体的に)死ぬことなのではなく、「唄になる」ことであった。「唄」は「暗闇」を照らすための光なのである。「空を見上げ」た「皆」が「ガラスのブルース」を歌い出すのは、その空に「星」=「唄」が輝いているのを見たからである。
そして、見るための器官とはまさしく「眼」である。
猫は「ガラスの眼」を持っていた。これがQ2のテーマである。
歌うことができるのは、恐らく、かつてその眼で「星」=「唄」を見たからである。
ならば、「星」すなわち「唄」を見るためには、それは「ガラスの眼」である必要があったのではないか?
ガラスとは「透明」で「硬い(そしてそれゆえに脆い)」ものである。
罅が入り、割れてしまったガラスは完全には復元できない。
ガラスは、負った傷を治すことができない。
そのような「脆さ」が「星」すなわち「唄」を見ることの条件である、というのは一体どういうことなのか。
そして、これについての答えは、最後のクエスチョンであるQ3について考えていくことで導かれるだろう。
ここまでが、前回までに僕たちが確認したことであった。
それでは、先に進んでみよう。
◆Q3:「川に行く」ことの意味は何か?
「川」という言葉が登場するのは、本楽曲中でこの一節のみである。
そして、#001で宣言した通り、ここが僕の考える「ガラスのブルース」の核心部分だ。
順を追って考えて行こう。
猫の「声が枯れ」るのは、喉を酷使したからである。
つまりは、「大きな声で」「いつも」「精一杯」唄を歌うからである。
声が枯れるのは、多くの場合、声帯に何らかの炎症が引き起こされることによる。医学的には、炎症というのは「発赤」「熱感」「腫脹」「疼痛」の4つを兆候とする、生体の防御反応のひとつだ。
だが、ここではそれほど厳密に考える必要はないだろう。
唄を歌うことは、痛みを引き起こすこと、なんらかの傷を負う事である、と考えていいだろう。
さて、「ガラスのブルース」においては、歌うことは生きることと密接に結びついていた。
以下のような歌詞を見れば、これは疑う余地がない。
「ガラスの眼をした猫」にとって、もはや歌うことは生きることと同義であり、自らの存在証明にすらなっていると言えるだろう。
「唄を歌う」ことが傷を負うこと(「声が枯れ」ること)であるということは、「生きる」ことが傷を負うことだということだ。
「唄を歌うこと」=「生きること」=「傷を負うこと」
このテーゼを念頭におけば、Q2における残された謎の答えが見えてくる。
この残された謎とは、すなわち「脆さ(傷を治せないこと)を特徴とする「ガラスの眼」が、「星」=「唄」を見ることの条件であるとはどういうことか?」というものであった。
もうお分かりだろう。
「唄」というのは「傷」に他ならないのだ。
それを歌う者に刻まれた「傷」のことを僕らは「唄」と呼ぶのである。
自分ではない誰かの「唄」=「星」を見るとき、僕らの眼は「傷」を負う。
そして、その傷をあっさりと治癒させるのではなく、むしろその身に抱え続けることこそが、その「唄」を受け取ることの条件なのだ。
「ガラスの眼をもつ猫」が歌っているのではない。猫は「ガラスの眼」を持っていたがゆえに「唄」を歌えるようになったのだ。
これが、Q2に対する回答である。
ガラスの不能性(傷を治せないこと)は、克服すべき欠点なのではなく、むしろ「唄」を受け取るために必要な弱さなのだ。
さて、これで残されたのはQ3のみである。
「川に行く」ことの意味は何か? 問題の歌詞を改めて確認しよう。
「声が枯れ」るのは、声帯に炎症が引き起こされているからだ。
炎症を起こした部分は「冷やす」のが鉄則である。使い過ぎて痛み出した喉を冷たい川の水で癒す。「いつも」「精一杯」「唄を歌う」猫にとっては、
川に行くことは毎日の日課のようなものなのかもしれない。
だが、ここまで確認してきたとおり、「声が枯れ」るとは、「歌うこと」=「生きること」が「傷を負うこと」であるということを意味していた。
そして、その「傷」が「治らない」ことが、唄を歌うことの条件であったのだ。
だとすれば、「川に行く」という行為の目的は、冷たい水によって、炎症を起こした喉=傷を癒すことにあるのではない。つまり、「水に映る顔を舐め」るのは、水を飲むこと以上の意味を担っていると考えるべきだ。
「水に映る顔」。
そう、ここでは川面は「鏡」として機能している。
そこには左右反転した自らの鏡像が、水の流れとともに揺らぎながら映し出されているのだ。
鏡の向こうの己の姿を見つめ、それに触れること。これが、傷を負ったものが「川に行く」ことの目的なのではないか。
ここで、Q1における考察を少し思い出そう。
「星になる」ことを、一般的に僕らは「死ぬこと」と解釈する。
だが、「川」というのも、死を想起させる言葉のひとつである。
たとえば「三途の川」は此岸(現世=この世)と彼岸(あの世)の境目に流れる川である。また、ギリシャ神話においても、生者の世界と死者の世界を分ける「ステュクスの川」というものが存在する。
「歌うこと」=「生きること」によって傷を負ったものが「川に行く」。
それは、死の世界に接近するとともに、そこに映る自らの鏡像を眼にすることであると考えられるだろう。
鏡に映る、左右反転した自分は、死の世界に所属しつつある自分である。己の中で死につつある(あるいは既に死んだ)部分である。他者によって、あるいは自らによって致命傷を負わされた「命のかけら」である。
それを見つめ、触れる(曲中では「舐める」)こと。こうした行為が、「歌うこと」=「生きること」にはどうしても必要なことなのかもしれない。
この仮説を、僕は「鏡のテーゼ」と呼びたい。
「鏡」とは、「透明」と同様にBUMPの楽曲の歌詞おける頻出語である。
鏡に映る自らの姿を見つめること、手を伸ばすこと。
この行為に、BUMPは重大な意味を見出だしている筈である。
「鏡のテーゼ」については、今後もいくつかの楽曲において検討する必要があるから、ここでは結論を出すことができない。
この重要なテーゼが、最初期作品のひとつである「ガラスのブルース」において既に提出されている。
今回は、このことを確認すれば十分であろう。
◆まとめ
それでは、ひととおりのまとめをしよう。
僕らは「ガラスのブルース」という作品のテクストから、3つのクエスチョンを抽出した。
Q1「星になること」とはどういうことか? においては、「星になる」とは「唄になる」ことである、という結論を導いた。
猫は星になった。だが、このことがただちに猫の(物理的な)死を意味するのではない。猫の唄(ガラスのブルース)は皆の心に刻まれ、辛いことがあれば皆は「空を見上げ」(つまりは「星」を見て)歌い出すのである。唄は暗闇を照らす光(夜空に輝く星)になぞらえられている。「ガラスの眼をもつ猫」は、「ガラスのブルース」という「唄」=「星」になったのである。
続いて、Q2「ガラスの眼」の意味は何か? においては、「ガラスの眼」とは誰かの「唄」を受け取るための、必要条件としての弱さである、と結論づけた。
まずはガラスの物質的な性質について考えた。ガラスは「透明」で、「硬い」けれど「脆い(傷を治すことができない)」。そして、本楽曲において「眼」は「星」=「唄」を見るものであり、つまりは「唄」を受け取るものであった。
この先に進むためには、Q3「川に行く」ことの意味は何か? についての考察を開始する必要があった。
猫は「声が枯れた」から川に行ったのだ。声が枯れるとは、歌うことで喉を酷使し、声帯に炎症が起こるということ、つまり「傷を負うこと」である。「歌うこと」すなわち「生きること」は「傷を負うこと」なのだ。
ここで、ガラスの性質である「脆さ」が効いてくる。「星を見る」=「唄を受け取る」ことは、誰かの傷を受け取ることであると考えられる。その眼が「ガラス」であるがゆえに、猫は受け取った傷を治すことができなかった。だからこそ、唄を歌えるようになったのだ。傷を治癒させるのではなく、そのまま抱えること、傷を治せないというその不能こそが、歌えるようになることの条件なのだ。
だが、もうひとつのガラスの性質である「透明」の意味するところまでは、現段階では到達できず、今後の研究課題として残されたのであった。
そして、Q3「川に行く」ことの意味は何か? において、僕らは「鏡のテーゼ」を発見することになった。
川とは一種の鏡であり、そして死(正確には、生と死の境界)を意味する象徴として機能する。「歌うこと」=「生きること」で猫は「声が枯れ(傷を負い)」、「川に行く」。それは、炎症を起こした喉を水で癒すのではなく、川面という鏡に映る自分、すなわち死の世界に足を踏み入れつつある(あるいは既に踏み入れてしまった)自分の姿を見つめ、触れる(舐める)ための行為(一種の儀式?)なのだ。
鏡像を見ること、そしてそれに触れようとすることは「歌うこと」=「生きること」に欠かすことのできない重要な行為である。この仮説が、僕らが「鏡のテーゼ」と名付けたものである。
その意味するところは、まだ解き明かすことができない。だが、「鏡」はBUMPの歌詞に頻出する鍵語のひとつであり、「透明」の意味と並んで、今後の研究課題である。
以上が、BOC試論の一曲目「ガラスのブルース」を検討した結果である。
BUMPのアンセムである本楽曲は、バンドが考える「唄」「歌うこと」の意味を宣言するとともに、生きることとは傷を負い、それを抱えることであるという哲学を埋め込んだテクストであった。
それを語るために「ガラス」や「川」=「鏡」というモチーフが提出された。ガラスの「脆さ」は「傷」に結びつき、「傷が治らない」という不能は欠点ではなくむしろ歌うために要請された条件であった。
ガラスの「透明」さ、そして「鏡のテーゼ」については全容解明には至らず、しかし今後の研究課題として拾い上げることができた。
どうだろう、初期の曲のひとつをちょっと分析してみるだけで、BUMPの世界についての見通しが随分広がったように思えないだろうか。
「ガラスのブルース」はシンプルで明快な楽曲だと思えるが、それにも関わらず、豊穣な意味を内包するテクストであること。このことは十分に示せたように思う。
それでは、「ガラスのブルース」についての試論には、ひとまずの区切りをつけよう。次に考える楽曲は「ランプ」だ。
お読みいただき、ありがとうございました。