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ほのぼのエッセイ第13回 車ってさぁ

  下層中産階級をAIで作ったら、たぶんうちの家族になるんじゃないかと思う。それぐらい平々凡々とした家庭で、祖母はめちゃくちゃ保守的で「もっと男らしくしろ」とかすぐ言ってくるし、おかんはハルキストをこじらせてるし、おとんは陰謀論が好きなので「NHKなんかみるな」とすぐ言ってくるし、兄貴はイラついたらすぐ暴力を奮ってくるし、次男の僕は甘ったれた他力本願のくそガキだった。

 そんな家庭で社会でバコバコのしあがっていき、強者となり金を儲けに儲け、憧れのマイホーム、憧れのハワイ、憧れのワゴン車なんてものには当然無縁であった。団地に住みながら、中古車に乗り、ほとんどのものを国道のリサイクルショップで間に合わせるのが常であった。

 その中でも、特に自動車は地方都市の生活において必須のものだった。兄と僕は少年野球をしていたからもある。試合のときには保護者が分担して、子供たちを会場まで送り届けるのが常であった。だから車に関しては、両親は金がないなかなんとか工夫していたように思う。

 最初に覚えているのが、RVRという中古車であった。紫色でゴツメの4人乗りだが、スペースが広い車だった。最初のった時、シートの毛並みがスースー滑る感じがして気持ちよかったのを覚えている。もちろんそのきれいな感じは、1ヶ月ほどで汚れベチャっとした毛並みに変わったが。

 兄が小2くらいのころ、自分の好きなもので作文を書くという課題が出た。その時に、このRVRについて書いて提出した。おかんとおとんは苦笑いしながら「やめてくれ」と言っていた。こんな安い中古車自慢できるもんちゃうぞと兄や僕に話していた。作文の内容は、僕の家の車はかっこいいんだという小学生らしいものだったが、両親としては気恥ずかしさがあったらしい。その時、子供ながら車にも格というのがあるんだなと思った。自分の家では、例えば周りの友達が無邪気にする自慢もあまりできないのかなあと思った。別に悲しくもなかったが。

 次にやってきたのが、ボンゴという名前のでかいワゴン車だった。(RVRは、おとんの実家の奈良に帰っている道中、突然エンストを起こし帰らぬ車となった)上に夢のワゴン車と書いているから、おとんがお金を貯め一念発起して新車を買ったのか?と思うかもしれないがそうではない。中古のボロいワゴン車であった。それが証拠に平成後期にいたって、軽油で作動する車であった。両親は、ガソリン代が安く上がると喜んでいた。無駄にでかい車だった。そしてなぜか謎に上にはテントがついていて、ボタンを押すと上にテントが伸びフォルムチェンジし、2階ができるという仕様であった。

 よくこの車でおとんと釣りやキャンプに行った。特に小5のころ少年野球を辞めていた時は。おとんは、僕が釣り糸を絡ませたりするとすぐイライラして、もうええ、貸せと言いながら無言で糸をほどいていた。なぜそんなすぐイライラするのか今思っても理解に苦しむが、そういうおとんなのであった。仕方ないし、僕も多分引き継いでいる部分はある。楽しい思い出はあんまりなかった。暑い中、おとんが「糸ほどくために、日本海きてんちゃうぞ」と皮肉を言っていたのを覚えている。そして、僕も「なんでイラつくねん」と不機嫌になり、防波堤の周りをずっと散歩していた。どっちもどっちであった。

 高知に帰った時、テントで寝ることがよくあった。天井が、ガラスになっていて、星が綺麗だった。でかい肌色の羽虫が懐中電灯の光に集まりふわふわしていた。高知では、蚊もでかくて刺されると痒さを通り越して、痛痒ささえあった。僕は不安定な体高の車が、寝返ることでひっくり返るんじゃないかと怖くてなかなか寝れなかった。でも、電灯もない田舎で、ひとりになれた幸福感みたいなものもあった。今思うと楽しかった。

 ボンゴは、車検に出した時、走れているのが不思議なくらいガタガタである。廃棄した方がいい、というかめっちゃ危ないっすみたいなことをガソリン屋の兄ちゃんに言われて、またしても帰らぬ車となった。

 そして、その後にやってきたのが、エッセという今の車である。この連載でも何度か紹介したことがあると思うが、緑色の小さな軽自動車でずんだ餅みたいなもちゃっとした体型の車である。ボンゴが廃棄されて、もう野球での送り迎えなどもないので(高校野球はほとんど電車移動であった)、小さな車でいいやとのことだった。

 大学で免許をとった時、よくこの車を借りて遠くにでかけた。海にいったり、接骨院に通うのに使ったりした。CDで音楽を聞きながら行った。奇妙礼太郎の桜富士山のアルバムを聞きながら、桂川の橋を渡った時、気持ち良すぎて泣いてしまったのを覚えている。CDしか聞けない車なので、ブックオフ通いも回数が増した。車でブックオフに行き、帰りに買ったCDを聞きながら運転するのが常であった。

 こう書くと、長谷川さん問題だらけだったけど、ちょうどいい車を見つけたのね。よかったわねぇ。あたし心配だったのよ、一時はどうなるかって…。という近所のおばさんたちの井戸端会議の声がひそひそと聞こえてくるが、やはりエッセもそれなりに問題の多い車であった。

 一番はバッテリーに問題があった。ある日、大学の友達の釣りに行こうとなった。僕が車だすわぁといって親から借りた。朝5時頃、友達に家について待つ。朝焼けを浴びながら、釣り糸を垂らす自分達の姿を想像しながらうきうきしていた。

 友達が全員そろった。よし、いくぞとエンジンを回す。が、キュルキュルキュルキュルという音だけ立てて全くエンジンが稼働しない。しかも、なかなかの音で、近隣の住宅街に騒音問題をもたらすレベルであった。しかも、車をとめていた場所がやくざっぽい門構えの前の駐車場で、それも怖かった。テンパった僕は、「頼むって」と連呼しながら、エンジンをつけた。薄明るくなる空に、車のしぼりだすような高音が響き渡っていた。友達はもう朝焼けはええからさと言っていたが、僕としては友達に対する申し訳なさと、朝焼けのなかなんとしても釣りをするんやという思いでエンジンキーを回し続けた。友達のもうええってという雰囲気と、前のやくざの家に人影を察知した僕は、さすがにやめた。プライドも何もかなぐりすて、おかんに電話し、どうすればいいか聞き、レッカー車を呼んだ。30分くらいでついた。レッカー車から出てきた兄ちゃんは、車の前のバンをあけて電気ショック的なのを施した。「これだいぶバッテリー弱ってますね」と言ってきた。「これで遠く行くんすか?」と聞いてきて「はい」と答えると、「辞めといた方がええんちゃいます」といって、帰っていった。僕は自分の家がボロ車しか縁がないのを憎んだ。もっとかっこええ大学生っぽい感じで、車出したかったのに。かっこがつかなかった。友達もどうする?みたいな雰囲気になった。

 結局相談の結果、やっぱり予定開けてるからもうやっぱ海に行こうということになった。高速に乗っても怖かったので、走行車線でノロノロ走った。何十のトラックが僕たちを追い越していった。大阪湾についたのは12時ころだった。曇天だった。サビキをしてたら、アホみたいにでかい80センチくらいのボラがかかったが釣っても食べれないので、逃した。それ以外はなにも釣れなかった。

 エッセは、彼女とデートに行った時もエンストしたり、家族4人乗せたら高速の坂で70キロも出ないくらいだったり残念エピソードが多い。

 でも実家に帰ると、いつもの顔で待っている。CDを聞いて、ドライブする。慣れるとかわいいものなのだ。酸いも甘いも思い出がたくさんあるから、安心する。

 僕の車の歴史は愛すべき残念なやつの歴史だなぁと思うのだ。

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