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私たちはずっと人権の話をしている

まえおき

 旧ツイッターことXでは長文を投稿するには課金しなければならないし、連投するのは正直に言ってだるいのでnoteのアカウントを作った。だったら「何かはよ書けよ」と自分でも思いながらも今まで放置していたのは、使い方がよく分からないが勉強する時間もなかったからなのだが、思い立ったら吉日ということで、使い方がよく分からないなりにちょっとだけ書いてみた。

しょぼい活動家

 おそらく私は世間から、しょぼい活動家とみなされるだろうし、自分でもそう思っている。差別的なデモや街宣には抗議のカウンターに行くし、場合によっては警察すら抗議の対象として扱う。入管法改悪に反対する街宣活動に参加しデモも歩く。パレスチナに対するイスラエルからの攻撃を止めるためのスタンディングなどの活動も、ありふれた日常の一コマだ。そこそこ活発に活動をしているつもりだが、本当にすごい活動家というものを知っているので、比べてみれば、自分のことはしょぼい活動家だと認識することになる。

街角で飛んでくるヤジ

 街角にプラカードなどを掲げて立っていると「そんなことをやっても無駄」とか「邪魔だクソ左翼」などというヤジを受けることがある。特定の政党を名指ししながら私に文句を言ってくる人もいるが、残念ながら、私はどこかの政党の人間ではない。どちらかといえばノンポリと呼ばれる程度の政治思想しか持ち合わせていない。好きな政治家はいるが、それは別にどこか特定の政党を支持しているからということではなく、個人的に応援しているだけだ。
 私たちが行っている活動の多くは、人権を主としてこの社会全体が孕む問題の提起であり、内容をちゃんと見れば特定の政治思想とはあまり関係ないことが分かりそうなものだが、そういう連中が内容を把握したうえでヤジを飛ばしてくることなんてごくわずかだ。街角で支持政党の政治家以外の者が活動していると「ムキーーーッ」となるような人々であり、何をか言わんやである。

なにが「今より少しでもよい社会」なのか

 これも、言い切ってしまえば簡単な話だ。今よりも人権が尊重される社会のことであり、シンプルに列挙すると大まかには以下の通りということになる。
・戦争がない社会
・差別がない社会
・暴力がない社会
・生活が今より苦しくない社会
 おそらくこれに異論がある人はそれほどいないのではないだろうか。逆に言えば、活動家に文句を言ってくる人というのは、これに反対する人、ということなのだろうか。友人知人からは「なんの得もないのになぜやっているのか」と聞かれることも多い。なんのためにやっているのか。答えは簡単だ。自分のためにやっている。それだけだ。自分のためにというのは、大人として、あるいはこの国を構成する者の責任として、この社会を「今より少しでもよくする義務」を負っていると考えるからであり、その義務を履行するのは間違いなく自分のためだというだけのことである。

「やり方が悪い」とか「口が悪い」とか言ってくる人々

 よく、「やり方が悪い」「口が悪い」だから理解されないのだ、と言ってくる人がいるが、そう思うなら自分でやれよとしか言いようがない。怒っているのだからやり方が乱暴そうだったり口が悪くなることだってあるだろう。怒らないでいられる人が「よりよいやり方」や「よりよい口の利き方」でやってくれれば済む話で、もし本当にそういう人たちがやってくれるのであれば、私なんかがやれることなどはあっという間になくなるだろう。ぜひ、今すぐにやってもらいたい。しかし、実際にそう言ってきた連中がやったのは、他人の足を引っ張るようなことだけだ。

私たちはずっと人権の話をしている

 だらだらと書き連ねてきたが、今回の主題はタイトルにも書いた通り「人権」であり、私たちはいつもずっと人権の話をしている。この社会は、私ではない誰かの人権が尊重され、かつ、私の人権も尊重してくれる社会であって欲しいし、私ではない誰かの人権が軽視される社会では、いつか私の人権も軽視されることになるだろう。率直に書けば、人権とは既得権益を持つ者たちにとって面倒臭く邪魔なものでしかない。だからこそ、それらの者たちが人権を蔑ろにすることがないようにするべく、私たちは途切れることなく人権の話をしなければならない。ところが、このような話をすると「そんなストレートに言うなんて恥ずかしい」という反応に遭遇することがある。しかし、本当に恥ずかしいのは人権の話を「恥ずかしい」と受け取ってしまうことがあり得る社会のほうであり、それは既得権益を持つ者たちにとって望ましい社会である。もう一度書く。だからこそ、私たちはずっと人権の話をしているのである。


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