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一人街宣が広がることの意味
民主主義を実践する
まもなく2024年も8月を迎えようとしている。イスラエルは相変わらずガザ地区を攻撃し、毎日のようにパレスチナ人に多数の死傷者がでているが、パリで開催されているオリンピックにはイスラエル選手団が派遣されている。先だっては東京都知事選挙もあり、私の観測範囲では世直し騒動とはこのようなものかと思うほどの騒ぎであったが、私が応援していた候補は残念ながら落選してしまったしその後のバッシングも酷い状況だ。なんだ、この状況はと、暗澹たる気持ちになる。やり場のない怒りや悲しみにいてもたってもいられなくなる。だから、都知事選の翌日からさっそくスタンディングに参加をした。
スタンディング或いは街頭宣伝
少しでも多くの人に何か知らせることができないかと、一人や複数人で路上に立ち、プラカードを掲げ、スピーチをすることもある。拡声器を使うこともあれば、選挙の時などは声をからせながらも肉声でスピーチをする。私たちが路上に立つ時には、その場所における通行人数、実施にあたって風雨や日差しなどの気象条件による影響、点字ブロックの敷設状況や他の交通に与える影響など、様々な要件を勘案しながら街を眺め、場所を選定する。率直に書けば、人通りが少ないところでやる意味はあまりないだろうし、修行ではないのだから、寒かったり暑かったりする場所はなるべく避ける。
白けた表情で通り過ぎる人々
偉そうに書いているが、私が人々に何かを訴えるために路上に立つようになったのはこの1年少々のことだ。それまでも、一般的なデモ行進やパレードは歩いていたし、2013年ころなどは、おっかなびっくりしながらもヘイトを伴うデモや街宣に対する抗議のカウンター行動などの直接的な活動はおこなってきた。しかし、スタンディングや街宣に対しては、私自身も「白けた表情で通り過ぎる人々」の一人だった。政治的なものから距離を置くことで、党派性に捉われず冷静に判断する自分を演出しているつもりになっていたのだろう。
実際には、党派性とは無関係に多くの人々が街宣やスタンディングをしていることは知っていたはずなのだが、そこにはそれとなく党派性があるという世間の見方に迎合し、そのような活動と距離を置くことで白けた表情の人々のひとりとして、ニュートラルで達観した自分を気取りながら通り過ぎてきた。
おかしな制度を見過ごすこと
この国の制度を決めることができるのは日本国籍者である。この国の制度に差別的なものがあれば、それを変える責任も国籍を持つ者にある。当然、変えないことも日本国籍者の責任である。昨今、話題になったのは入管法の改悪だ。これまでも長年に渡って散々議論され、国連からも多くの問題点を指摘されてきた法案だが、政権はそれを認めようとしない。このような政権与党に投票し続けたのは日本の国籍を持つ者であって、その責任は日本国籍者がすべて負うことになる。しかし、被害を受けるのはこの国に住む日本国籍を持たない人々であり、その被害を素知らぬ顔で放置し見過ごしているのは、まさしく我々のような日本国籍者である。
無関心という名の無責任
私が街宣などで路上に立つようになったのは、入管法改悪に対する抗議のスタンディングに参加したことがきっかけだ。入管法改悪に関心を持った事件があり、それを最初に知ったのは2021年夏ころだったように記憶している。入管の収容施設でスリランカ人女性が体調悪化を訴えたが、まともな治療を受けることができずに死亡した事件だ。
他者の人権に対する認識の欠如と無関心。たとえ自分が多少の損をすることになったとしても他人が少しでも得をするのは絶対に許さない。それがこの国を形作る私たちの特性。多くの人々は、酷いニュースを見たらほんの少し眉を顰めるが、その数分後には何気ない日常へと回帰してゆく。無関心という名のもとに、自分とは関係ないどこかの誰かにまつわる話だと忘却の彼方に追いやってしまう。知らなかったのだから自分には責任がないと言わんばかりである。
そうして、2021年に一度は廃案となった入管法改悪案が、2023年春、ゾンビのごとく復活し、それに対して日本全国で抗議のスタンディングやデモ行進が行われ、私も参加することにした。結果的には2024年6月から施行されてしまったが、まともな法律に改正するチャンスをあきらめるつもりはない。
政治的な意思表示をするということ
この国の制度を変えるためには政治参加をすることによって意思表示をするしかない。一般的には、投票行動によって政治参加をする。少数の人は、議員として立候補することで政治参加をする人もいるだろう。しかし、私たち一般人は、投票することでしか政治的な意思表示をすることができないのだろうか。答えは否である。国会以下、都道府県や区市町村の議会では、議事の進行を傍聴することもできるし、他者の投票を促すべく、街宣やスタンディングの場で意見を表明することも立派な政治参加のひとつである。私も連日やったが、先の都知事選で多く行われたのは「一人街宣」と呼ばれる方法だ。今までは、街宣というと、拡声器を使った演説を行いながらその周辺でビラを配布するなどの活動であり、その多くは、どこか特定の政治政党の活動として受け止められてきた。しかし、2022年の杉並区長選挙から、街頭に一人で立つ「一人街宣」が注目を集めるようになり、2024年の東京都知事選挙を機に、日本全国に広がりを見せるようになった。
政治と宗教と野球の話はするな
この国では、あらゆる場で「喧嘩になるから政治と宗教と野球の話はするな」という暗黙の了解が求められてきた。音楽フェスでは、アーティストが社会問題に口を出すと「音楽に政治を持ち込むな」などというクレームが発生する。さすがラブソング至上主義のカラオケ国である。ジャズやブルースといったジャンルの音楽が生まれた背景など「1mmたりとも興味も知識もない」というような子供じみたクレームがまかり通る。また、宗教についても、オウム真理教や統一教会などのような危険な集団に対しても口をつぐむような態度が被害を拡大させた原因ではないだろうか。野球は、まあ、社会に対する影響としてどうでもいいと思うが、本来、避けるべきは、関係修復が不可能なレベルでの喧嘩であり、政治や宗教に関しての議論自体は大いにするべきであったのではないだろうか。
一人街宣が広がることの意味
これまでのような、自由な政治的意見表明ができない息苦しさが出口を求めて広がったのが「一人街宣」なのだろう。「一人街宣」を見て不快に感じるという人がいるのは、先にも述べたように、政治の話はご法度とされ他人の政治的な意見を聞くことがこの国では極めて稀であったため、自分が我慢している話題を平気で他人がしているのを認識し、ずるいと思ったからではないだろうか。もう一つの要因として、電車内での携帯電話による通話を蛇蝎のごとく忌み嫌う国民性として、政治的意見を「プライベートなこと」と認識し、他人のプライベートは知りたくないという感情によるものであるかもしれない。もし、前述した2つの要因であるならば「邪魔だ」「目障りだ」というクレームには「お前もやれ」と返すだけでよいし、街角で喧嘩ではない政治的議論が活発になることによって、この国の民主主義が充実することにつながるのではないだろうか。