羨ましいと思う前にまずは逃げ出さないこと

一つのことに夢中になれる人が羨ましいと、私はずっと思っていた。

私にとって、型にはまって、はみ出さず、それなりに真面目に生きることが正解だと思っていたし、何より自分が楽だと思える生き方だった。
周りの目を気にして、自分がどうあるべきか、周りがどうしてほしいのか、そういうことを常に推し測る生き方は、当然息がつまることも多くて苦しいことも多いけれど、ある意味自分の意思を明確にする必要がない分、逃げ道や言い訳を作りやすかった。
そう考えれば、無責任な生き方ともいえる。
何か失敗したりすれば、私ではなく、そのベースを作った人をせめればいいのだから。

やりたいことが明確で、夢中になっている人を羨ましいと思う反面、どこかで自分でそんな生き方から逃げていた。

初めて、私が羨ましいと思ったのは姉だった。
いろいろな辛さや苦しさを、姉は私と違って沢山経験してきている。
それだけを見れば、私の方が幸せな生き方を出来ているのかもしれない。
でもそれは、姉がずっと徹底してやりたいと思っていることを実現するために、もがいてきたからこそぶつかってきた壁だった。
今でもきっと、大なり小なり壁にぶつかりながら姉は生きている。
そんな姉の生き方を、私は昔からどこかで羨ましいと思い続けていた。

でも今、私は気づき始めている。
私が羨ましいと思っている生き方を実現するには、まずはこれまで自分が避けてきた"自分の思い"と向き合わなければいけないということに。

昔から、やりたいことなんてないと思っていた。
でも正しくは違う。
やりたいことなんて出来るわけない、という諦めの気持ちだった。

自分自身の生き方に責任を持つことは出来る。
ただ、自分以外の人の生きる時間に、自分がほんの少しでも関わって、その人と人生に少しでも関わってしまうことがずっとこわかった。

私がやりたいことは、こうやって文章を発信していくこと。
こんな拙い文章でも読んで下さる方々がいることが嬉しい。

でも、私の書く文章は、ほとんどが私の考えや生き方についてで、いわゆる"お役立ち情報"のようなものを発信することはほぼない。
それはある意味、意図的だったりする。
情報は多面性がある。正しい一つの情報があったとしても、それは様々な方面から検証すれば、誤りになる危険性も常に含んでいる。
そんなことを言っていたらキリがないと言ってしまえばそれまでだが、私はそこまで責任を持って発信をすることは出来ないと思っている。
だからこそ、そういう情報発信はほとんどしない。
それも逃げの一つなのかもしれない。

でも、私の生き方はたった一つしかない。
何度も人生をやり直せるのであれば話は変わってくるが、人生は一度きりだということを考えれば、今のところ、私の歩んできた道は一つ。

だからこそ、そんな私の生き方を発信することについては責任を持ちたい。
私の生き方は、お手本になるものではない。
でも、反面教師にしたり、世の中にはこんな人もいるんだと思うことでほんの少しでも救いになったり、ということには繋がってほしい。

自分の思いから目をそらさず、自分がやりたいと思っている"文章の発信"を続けること。
それが、私にとっての第一歩。

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