自分を守ろうとすることで逆に自分を追い込んでしまっていることがある

人と関わることは嫌いじゃなかった。
物心ついた時から、苦手意識はない。

でも、小さなきっかけや積み重ねが、状況を変えていった。

私は末っ子だったこともあり、家庭では可愛がられた方だと自覚している。
そしてそれと同時に、本当の自分を上手くごまかして、隠して、大人たちが求める理想の子供像を実現することに努めた。

それは、大人からみれば印象が良かったけど、同世代の子供たちからしたら鼻につく存在で、正直鬱陶しかっただろう。
ただ、後々冷静に考えてみたら、大人から見ても必ずしも良い印象だったかどうかは疑問かもしれない。
つまり、印象がいいの意味が違っていて、「お利口さんでいい子」ではなくて、「扱いやすい真面目な子」という意味だったように思う。

そんな私は、小中学時代、いじめの標的になることが多かった。
ただ、長く続くいじめにあうことはなかった。
というより、途中から私は、いじめの標的にすらならない空気のような存在になっていた。
いじめられても反応は薄くて、怒りも泣きもしない、落ち込んだりもしない。
そんな私はいじめ甲斐がなかったのだろう。

そして私自身も、中学までの人間関係は捨ててしまう覚悟でいた。
いじめとか妬みとか、そういうのが子供ながら面倒に思えて、ここでそんなことで悩むより忘れてしまおうと思った。

そんなわけで、私には中学以前からの友達はいない。

その頃に、私は人と深く関わろうとする気持ちを失ってしまった。
それ以来、私にとって『会話』は、人と距離感を保つための、自分をごまかす道具になっていった。

子供の頃の経験は、その人の人格を形成する大事な要素になると言われている。
物心がつく前のことを言っているのかもしれないが、実際、少なくとも10代半ばくらいまでの経験はその人を形作る大きな要素になると私は実感している。

なぜなら、中学卒業までの間に、私の心には、"人とは適度な距離感を持って深入りしないこと"という、人と関わる上での指針がたてられるに至ったのだから。

人と関わることに苦手意識はないと思っていた。
でも、それは少し違ったのかもしれない。
苦手だと感じるほど、人と関わってこなかった。
それが現実だ。

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