落日/天体による永遠/遥か 遥か先

兎を見て犬を呼ぶ
「もう手遅れだけれども、いまならばまだ

注)作品そのものの感想というよりは、作品と出会いながら新年の抱負の一つを立てる連想ゲームが、ここにあります。


今年こそ本を読むぞ!と意気込んでも、年間0冊に終わることがしばしば。週刊少年ジャンプは本に入りますか?とよぎったけれど、収録されている全ての作品を読んではいないから、年間0冊です。諦めよう。

ところで、馴染み深い認識が揺さぶられて果てには新たな像が結ばれる瞬間は、本当に気持ちいい。驚きというバフが切れたあとにも、余韻に浸ることができる。
あの偶然の感覚を味わうには他者の手を借りるのが有効な気がする。自分の中の他者の手を借りて再現を試みても、なかなか枠を超えられない。

そこで、本を読みたい。せめて一冊でいい。
ほんの少し無理をして、認識のための枠組みを得て、その助けを借りれるようになりたい。
などと言っているが、本への欲求が自分に現われていることだけはわかる一方で、その理由はよくわからない。本を読んでいる人と話すときに、自分には全く無い知識(理論、あるいはものの見方)の網の目に裏打ちされた感動を見せられたり、鋭い洞察や感性を発揮されたりするから、憧れているのかもしれない。こじつけかもしれない。単に日々の生活の中に本があればいいのかもしれない。
いずれにせよ、本を読みたい。

ここまでの文章に、強烈な既視感がある。
自分の中の他者の手を借りて再現を試みても、なかなか枠を超えられない。


落日

貝と蜃気楼のアルバム『七日目の街』の最後の曲:「落日」
英題:"Eternity in our last scene"

Spotify のタイムカプセル機能で遊んでいるときに、「出会ったときの感動を忘れられない曲」という設問があった。「落日」と答えた。

MVが投稿されたのは2022年12月1日(金)。新宿club SCIENCEで開催されたライブ「七日目のパレード」の前日。じつはこのときまで、ライブで「落日」はやらないかもしれないと思っていた。(思い返せば、「落日」を生で浴びれないなんてあるわけない。)というのも、ライブの前日譚である無観客配信ライブ「六日目の獣たち」で「落日」が披露されたから。
けれど、MV投稿時の、バンドメンバーのKYOTOUさんによる引用リツイートを見て、明日は「落日」をやるんだ、と確信した。ツイート内容は次。

われわれの世界はかつて何度も滅び、これからも滅び、また蘇る。

「過去は、我々に瓜二つのあらゆる天体上で、最高に輝かしい文明が跡形もなく消滅するのを目撃しているのである。それはこれまで以上に痕跡を残すことなく、再び消滅するだろう」
――ブランキ『天体による永遠』

内容は今でもわかっていないが、何かしら予感させるものがそこにはあった。ライブ前日の予習としての意味とは別に、まるで何かに定められるように、「落日」の時間は再び訪れるだろう。果たして、いずれのライブの本編も、「悪夢、正夢」に始まり「落日」に終わった。

「六日目の獣たち」は無料で観られます。ありがとうございました。
選曲で「!?!?!?!?」「は~~!?」「おいおいおいおい」みたいな感じになりました。

「七日目のパレード」で演奏された「落日」。
「僕は救われたくなんてないのにな。」以降が刺さってなかなか抜けない。まるでしまっていたものをぶつけられたみたいで。「しあわせだって僕は言えるよ、」の語り方はほんとうに涙腺に響く。
そして、曲の最後のサビ前、原曲では蝉の鳴き声が聞こえる箇所で、ギターが一度鳴らされた瞬間、なぜだか「終わった」と思った。ショッキングだった。あれはいったい何だったのだろうか? 蝉の鳴き声だったのだろうか? 火球が落ちる予知夢でも見ていたんじゃないのか?

世界が終わる最期の日に、いったい何を願うのだろうか。未来を考えられない/考えずに済む、そんな日に。続く日々の中で一旦の回答がまとまったときに、ライブやアルバムや曲の感想がまとまればいいと思う。
終わるとはいえ、浮かぶ願いは「生きたい」なんじゃないのか。だとしたら最期の日はどうしようか。あたかも明日が続くかのように生きるのも一つの抵抗としてありだし、せめて今日こそは生きたいと普段と違うことをするのもありな気はする。具体的にはなんだろう、あるいは、具体的な目印を決める必要はあるのか。その瞬間にぼんやりとした「生きる」を体現すればいいんじゃないのか。それってどういう意味か。

「落日」の中で好きな歌詞の一つは、
「特別な今日を普通の一日にしよう
 ひとつひとつ集めて花束にしよう。」
です。
ぼんやりとしていると、非日常に流されて日常を圧殺してしまいそうな気がするから。そして、「落日」の視点人物の彼が、何か切実なものを確かめている言葉のような気がするから。

あの日のライブには、〈今〉があった。そんなライブの場に立ち会うことができて、しあわせだった。


天体による永遠

話題を少しさかのぼるけれど、「落日」のMVを見たときに妙に存在感を放つ本があった。タイトルを検索してみると、なんと実在する本らしい。そう、『天体による永遠』である。
気がつくとその本は手元にあったので、とりあえず序盤と終盤をつまみ食いした。結局、通読されることなく年は明け、今に至っている。いつか読めたらいい。
どんな本かを説明することはそもそも読めていないからできないのだけれど、たとえば、宇宙には各瞬間ごとの天体や人間や砂粒と相似なものが「無限に」存在すること、を推論したりしている。
面白かったところをメモのつもりで一部抜粋しておきたい。

宇宙は、時間的、空間的に無限である。それは永遠で、無辺で、分割不能である。

ブランキ(浜本正文訳)[2012]『天体による永遠』、岩波書店、7頁。
原著は1872年。

・・・? 印象的な書き出しな割にあまりピンとこないけれど、多分そのうち何とかなるから一旦パス!

パスカルは壮麗な言葉を使って表現した。「宇宙は、いたる所に中心があり、円周がどこにもない一つの円である」。無限を表わすのに、これ以上に魅惑的なイメージがあるだろうか? パスカルの言い方にならって、それをもう少し厳密に言い表わすと次のようになるだろう。宇宙は、いたる所に中心があり、表面がどこにもない、一つの球である。

同上書、7~8頁。
パスカルの引用の箇所に訳注が付いていて、「ブランキにも引用の誤り」があったらしい。
パスカルも、周辺のない無限の球体のイメージを持っているらしい。

ビジュアルイメージを持つように誘導してくれて、助かった。さっきの「空間的に無限」とか「無辺」とかの感覚が少し掴めてきた気がする。
映像を頭の中に走らせようとすると、まず「球」と言っているから、どでかい球を創る。いくら大きいといっても球なので、「表面」が境目となって空間が内部と外部とに分かれる。そして、なんと表面が無いらしいので、内部がず~っとどこまでも延長していく。「いたる所に中心があり」がなかなかニクい。というのも、そんな空間は想像できないし、ありえないと思ってしまうから。けれども、あらゆるところを中心とみなしてもいいくらいに、今開かれた空間は広大無辺だ。そして、これを空間と呼ばずに「一つの球」と言ってのける。無限なはずなのに、あたかもそれがすっぽり収まっていそうな言葉遣いにみえる。だから、すべてが球の内部にあり、満ちているように感じる。
妥当性は何もわからないし、実際のところブランキがどういうイメージを持って興奮しているのかはわからないが、たしかに魅惑的だと思う。とりわけ、「無限」という言葉から果てがないイメージはよく連想するけれど、満ちているイメージを連想することはないから、いい収穫だった。

こういう体験があると、本を読むのは楽しい。自分にとって。

終盤からも引く。

もしも誰かが、宇宙の幾つかの地域にその秘密[=すべての人間が数限りない自己の分身を宇宙の広がりの中に持つこと]を尋ねるべく問いを発したら、彼の何十億という瓜二つの人間も、同じ考えと同じ疑問を持って同時に空を仰ぎ、目に見えない彼らのすべての視線は交差する。

同上書、123頁。
[ ]内は引用者による。

映画のワンシーンみたいにドラマチックだし、今回つまみ食いした中では一番感動した。「目に見えない彼らのすべての視線は交差する」、何回読んでも惚れる。
おそらく、ブランキ自身も感動していたと思うし、狙ってドラマチックに書いたのだと思う。というのも、自己の分身を発見しない人たちに対しては「自己の偉大さに酔い痴れ、自己を宇宙だと信じ、自己の牢獄の中であたかも無限の空間にいるかのごとく振舞って生きている騒々しい人間たち」(136頁)となかなかの言いようだから。

実を言うと、この天体による永遠はメランコリックなのである。また、宇宙空間の非情な壁に阻まれた兄弟世界たちの不法監禁は、それ以上に悲しい。お互いに相手の存在を予期することなく過ぎてゆく同一の人間が、どんなに数多くいることだろう! 否、気づいた者はいるのだ。十九世紀になって、ついにお互いの存在は発見されたのだ。しかし、一体誰がそれを信じようとするだろう?
その上今日まで、過去は我々にとって野蛮の象徴であり、未来は進歩と科学と幸福を意味していた。だが、幻影にすぎない! 過去は、我々に瓜二つのあらゆる天体上で、最高に輝かしい文明が跡形もなく消滅するのを目撃しているのである。それはこれまで以上に痕跡を残すことなく、再び消滅するだろう。未来は、何十億という地球上で、我らが古き時代の無知や愚行や残虐に再び出会うであろう!

同上書、135~136頁。

なかなか陰鬱な雰囲気。とりわけ前半は、自身の感動的な発見をむなしく見せるくらいに。後半は、「過去は~目撃している」「未来は~出会う」の言い回しは好きだな、というのは置いておいて、彼の人間観や社会認識が殴り掛かる勢いで表明されている気がする。悪が繰り返されることを逃れがたい未来として述べているようにみえるのも印象的。

ブランキの話とは関係ないけれど、引用の前後を実際に確認してみると、引用から当初受けた印象とは違った印象を受けたり、それ以上に面白い話が重なっていたりすることがある。そういったときは、引用者は何が欲しかったのか・なぜそれが欲しかったのか、みたいな疑問が湧いてきて、その疑問の解消がよりよい理解をもたらしてくれることがある。

話題を『天体による永遠』に戻す。

ところが、ここに一つ重大な欠陥が現われる。進歩がないということだ。ああ! 悲しいことに、それは事実なのだ。何もかもが俗悪きわまる再販であり、無益な繰り返しなのである。過去の世界の見本がそのまま、未来の世界の見本となるだろう。ただ一つ枝分かれの章だけが、希望に向かって開かれている。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである、ということを忘れまい。

同上書、133頁。
強調は著者による。

前半はさっきと同じ調子。後半の方は、丁寧に強調されているが、今のところは、このことがブランキの憂鬱に光明を与えているようにはみえない。枝分かれはあるにしても結局瓜二つにすぎない、みたいな調子にみえる。にしても、この希望を述べるタイミングで珍しく強調がなされている。結局、ここでのブランキが果たしてどのような希望の持ち方をしていたのかはよくわからない。

『天体による永遠』をより他者として扱うには、あるいは、この本を書いたブランキのところどころでの認識がなぜそのようなものだったのかに思いを巡らせるには、彼の来歴や彼の生きた時代を知る必要があるような気がする。2周目以降は解説なりでフォローしながらそんなことができるといいし、そのまえに1周通読できるといい。(そういう類の補完を1周目からしてはいけないなんてことはまったくない。)

冷静に考えて、読んでもいない本を(情報として利用する以外の目的で)引用したりそれに感想を抱いたりするのは、なかなかに変で、アンフェアに思える。が、理解の改訂可能性さえ開いておけば、before→after 用のメモとして丁度いいし、怠惰なりの半歩分の前進として自分を慰めてもいい気がする。


遥か 遥か先

ブランキ『天体による永遠』をつまみ食いしたとき、特に、それぞれの世界の「目に見えない彼らのすべての視線は交差する」という一節を読んだとき、『遥か 遥か先』がよぎった。映画『HELLO WORLD』のBlu-ray(スペシャル・エディション)特典に収録されている書下ろし小説の一つだ。あれを読んでしまった人は、頭の中で天地開闢を起こされたせいで読み終わった後の余韻がさっぱり抜けなかったと思う。

改めて読んでみると、『遥か 遥か先』の登場人物ブラウンと『天体による永遠』の著者は意外と対照的に思える。パスカル『パンセ』の「人間の不釣り合いについて」から始まる断章の引用、無限に存在する相似な世界という発想、憂鬱、19世紀。(詳細をみれば違うけれど)そんな妙な共通点がありながら、ブラウンは憂鬱を脱して希望を抱いた。果たして二人を分かつものは何だったのだろうか。

疑問を一つ収穫して満足したところで、冷静になってみると(自分を除く)この文章の可能的読者は『遥か 遥か先』はもちろん『HELLO WORLD』を観ていない可能性があるので、ネタバレを避けて『HELLO WORLD』をお勧めします。
・『HELLO WORLD』は初めて2回以上映画館に観に行った映画です。それくらい良いです。
・『HELLO WORLD』は初めてBlu-rayを注文した映画です。それくらい良いです。
・Official髭男dismの「イエスタデイ」を聴いて苦しむことができる。
・作品の世界観に対して思いを巡らせることが登場人物の生や心情に思いを巡らせることと色濃く結びついていてとてもいい。
・登場人物が魅力的(主観)。ナオミが一番好きです。こじらせよう。
・とりあえず観よう。
・(読み返してみて物足りなかったので、多少の雰囲気バレを交えて追記します。)主題歌の一つであるOKAMOTO'Sの「新世界」を聴いてなんとなくいいなと思ったら、ぜひ観てほしいです。観終わったあとの感覚は(おそらく)この曲の雰囲気に近いから。朝に目が覚めて窓の外に足跡一つない雪原が広がっているのを目にした子どものような感覚です。好きな歌詞は「何度でも何度でも 不完全過ぎる 僕らに花束を贈り 世界中この香りで満たしてしまえばいい」です。


おわりに

今思えば、『HELLO WORLD』を観ておきながらあまり本を読んでいないのは、なかなかもったいないことをした気分になる。

それはそれとして、本を読むのは難しい。特に、一人で本を読むのは無謀すぎる。人が本を読んでいる時間を、理解が形成される過程や瞬間を目の当たりにしたい。整然とした文章にまとめられる以前の理解を聞きたい。

そういえば、貝と蜃気楼のメンバーが参加している蟹亀読書部があることを思い出した。熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』『西洋哲学史 近代から現代へ』という本を読んでいるらしい。

今年読む本は決まりました。
助走はつけたので、今年こそせめて一冊読むぞ!


Eternity in our last scene

『天体による永遠』をつまみ食いしたときの印象だけれど、「永遠」のニュアンスが「落日」のそれとは違う気がした。
『天体による永遠』の「永遠」は、宇宙の時間的・空間的な無限の別名だった印象がある。空間のあらゆるところとか、空間みたいな時間(数直線上)のあらゆる点でつねにとか、そんなイメージがある。そのイメージとは別に、不滅や再生のイメージや満ちるイメージもあるけれど。
「落日」の「永遠」は、まさにこの光景とか、まさにこの瞬間とか、そんなイメージがある。
わからない。永遠のことも無限のことも瞬間のことも、何もわかっていない。

「落日」の間奏やサビのコーラスとドラムは自分にとって印象的で、あれを聴く瞬間毎に胸が締め付けられそうになる。音を聴くだけでもそうなるのだけれど、まるで刻々とリミットを叩きつけられているみたいだなと思うと、余計に迫るものがある。終わりが来る以上、未来は無いのだから、この瞬間以外に無い。

our last scene には限りがあるのにその中にEternity があるというのは、妙な感覚で、間違っている気さえする。けれど、「落日」の登場人物の彼らの last scene は、あの瞬間の彼らにとって全てだったと思う。
「君の瞳の中で今が永遠になるように。」は「落日」の中で好きな歌詞の一つだけれど、どうあがいたって今は永遠にはならない。けれど彼は、彼女にとって今この瞬間が全てであってほしいと願っただろうし、それが彼女の記憶の中で不滅であってほしいと願っただろうと思う。
この光景やこの瞬間が「全て」なんて間違っている気がする。けれど、「宇宙」とでも呼びたくなるようなその「全て」はうつくしい。

こんなちっちゃいお願いごとなんて、そのうち忘れちゃうんだろうね。忘れられるから遠くに行けるの。分かる? だから、きみはどこにも行けない。覚えているでしょう?
こんなに赤い夕焼け。きれいね。
――わたし、どこまで行けるかな。

貝と蜃気楼「Interlude:最後の羊」

好きな歌詞です。ほんとうに。

永遠と呼ぶことのできる〈今〉はほんとうにうつくしい。


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