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子供部屋の手記3.5―何かしているが、何も出来ていない

自己評価は理想の自分との相対評価と減点評価

前回のnoteで、僕は自分の希死念慮を「自分の価値を相対的かつ優生思想的に測っているもの」と語ったが、正確には社会相対の項目を省いて誰かと比べなくても、僕の希死念慮は『理想の自分』との相対評価かつ減点評価だったりする。

だから
「納得の行く結果以外は価値がない」
「何か出来ていなければ価値がない」
「予定や理想の通りに何も出来ていない時点で無価値」
「自分の作った物が客観的に無価値と判断された時点で、もう自分が誇ったところでその価値に意味は無い」
という減点を僕は自分自身に課し、その減点を回避するために頑張ること、努力することを自分に課そうとする。

けれど文章にしても絵にしても生活にしても、課しても課しても納得の行かない結果に減点を付け続け、衝動と凝り性と事故で狂ったスケジュール・上手く行かない創作やインプット・余計な事ばかりに時間を費やし手も付けられず結局何も出来なかったことに苛立ちと絶望を覚え続ける。

創作やインプットの邪魔でしかない夕食の時間を極端に嫌がり、親の視線に嫌悪感を覚え、一人暮らしをすることばかりを考えている。
しかしその望みは経済的に叶うこともなく、僕は子供部屋で自分が何も出来ない事を呪いながら苛立ちと怒りと絶望と空腹でいっぱいになりながら、語彙も貧弱でストーリーも新鮮味のない駄文や、線画もヘロヘロで塗りもグチャグチャな絵を描き続けている。

その中で何とか作り出した僕の誇りと自信が客観的な評価という刃で砕かれるのを怖がり、ガス室で死ぬべき欠陥人間と自分の価値を論じ、処分を望んで自ら処分を課そうとするのだ。

少しずつ成長していても意味が無い

大抵僕が「何一つまともに出来ない欠陥人間」と語ると、僕が成長している、他人に出来ない事が出来るとフォローを入れてくれる人が居る。

だが、僕が遅々と成長している間に周囲は何十倍も成長しているし、何十倍も精力的に活動している。
そんな人々に対して僕は何も出来ていないのだ。
他人が出来ない事だって所詮はその界隈のボーダーラインを割っていて、もっと上手くやっている人や僕以上に精力的に活動している人からすれば何もしていないに等しい。

そんな中で僕が遅々として成長して、他人が当たり前のように出来る事が出来るようになったところで、それは僕の価値の加点にはならない。
「他人には出来て当たり前のことが出来るようになっただけ」なのだから。

成長するなら何十倍も成長しなければいけないし、何十倍も精力的に活動しなければ意味が無いし、できない限りそれは減点対象なのだ。

結局僕にとって日々の全てが減点対象で、全てが上手く行かない苛立ちの中で、他人が当たり前のように出来てることが成長してやっと出来るようになり、人一倍するべき努力が何一つ出来ていない自分を呪っているのだ。

僕は人以上に成長するための努力をするためなら、鬼舞辻無惨にだって魂を売る。
精力的に活動するためなら薬とカフェイン漬けで身体を壊そうが構わない。
自分で自分を処分できないならば、身体を使い潰して理想に近づく他に僕に存在価値はないわけだ。

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