峠に佇む男
あれは、去年の夏、うんざりするような暑さに参りそうになっていたある金曜日に遭遇した話です。
私はバイク趣味でして、その日はS県で開催されるバイクの大会会場に朝一で入れるようにするため、S県から遠く300kmぐらい離れた家を深夜に出発して愛車のバイクを西へ走らせていました。
眠気に耐えながらバイクを走らせること約1時間。私はK県にある峠に差し掛かっていました。土曜の日付を跨いだ直後という時間もあり、車通りは非常に少なく、片側一車線の県道を行き交う車はほとんどありませんでした。
そんな山道を走っていると、路肩に一台のシルバーの車が止まっているのが見えました。車はヘッドライトをつけて、フットブレーキを踏んだランプが灯った状態で止まっており、傍には向こうを向いた男性がスマホを片手に佇んでいました。
こんな時間にここで何をしているんだろう。誰かを車内に待たせて電話しているのかな、と思いながら何気に車の方を見てみると不思議なことに気づきました。
車の中に、誰も乗っていないようなのです。
フットブレーキのランプが点いているということは、誰か運転席に座っているはずなのですが、誰もいないというのはおかしな話です。
ただ、私も運転しながらチラッと見ただけだったので見間違いだろうと思い、深く考えずそのままバイクを走らせました。
そうしてしばらく峠の上り坂を走っていると、また一台の車が止まっていました。
こんな深夜に2回も駐車している車を見るなんて、と思いながら車に近づいてみると、私はゾッとしました。
その車はさっきと全く同じシルバーの車で、傍にはスマホを片手に佇んだ男性が立っています。
最初に見た車から1〜2kmほど走ったところに全く同じ車があるのです。
人通りも少ない深夜の峠道。当然ながら、途中で車に追い越されたということもありません。
私は怖さ半分好奇心半分で、速度を落としてゆっくりと車を見てみました。
車は相変わらずフットブレーキの灯りが点っていましたが、車内には誰もいません。やはり、見間違いではなかったようです。
側にはさっきと同じ男が変わらず佇んでいます。顔は向こうを向いているのでわかりませんが、右手にスマホを持ち、白いシャツとジーパンを履いたその男性は、私と同い年ぐらいに見えました。
私はその薄気味悪い光景に恐怖が一気に湧き出てきて、速度を上げて彼の横を通り過ぎました。
街灯の少ない深夜の峠道で、私は急に怖くなってきました。基本的に私は幽霊なんて信じないタチなので、深夜の峠を走ることに恐怖を感じたことなどなく、これまで何度も愛車と深夜の山道を走ってきました。ですが、この時ばかりは初めて夜の山に対して恐怖が沸いていました。
私は冷や汗をダラダラとかきながら、もう遭遇しないでくれと何度も心の中で唱えながら薄ら寒い夜道を走っていました。が、しばらく進むと、またまあの赤いランプが見えてきたのです。
私は頭が真っ白になりました。遠目に見ても、あのシルバーの車だとすぐにわかりました。さっきと変わらずフットブレーキのランプを灯し、傍にはあの男がいます。
全身がゾワっとする感覚が突き上がってきたかと思うと、体に当たる夏の夜風がどんどん寒く感じてきました。私と車の距離はどんどん短くなります。早く通り過ぎようと私は速度を上げようとしたのですが、あろうことか焦りのあまりクラッチをミスってしまい、バイクが男のすぐそばで止まってしまいました。
私は急いでエンジンをかけ直し発進させようとしました。すると、その男がスマホをゆっくりと持ち、まるで動画でも撮るように私の方へ向き直ってきました。彼は街灯の下を通って、ゆっくりゆっくりと私の方に向かってきます。そして、街灯に照らされた彼の顔を見るなり、私は完全に凍りついてしまいました。
彼の目は、まるでくり抜かれたように真っ黒だったのです。
それに彼は、日本語でも英語でも無いどこかの言葉をブツブツと呟き、正気のない顔で口をパクパクとさせています。
その声は決して小さい声ではなく、何かを言っているのはヘルメット越しにもはっきりと聞こえましたが、何を言っているのか全く理解できません。
恐怖のあまりしばらく動けませんでしたが、冷や汗で手が滑ってバイクを空ぶかししてしまったのをきっかけにハッとし、エンジンをかけ直して猛スピードでバイクを発進させました。
私はもうS県の大会どころではありませんでした。この道を進むと、またあの怪異に遭うかもしれないという恐怖で、元来た道を戻り、途中で別の道に入って大急ぎで人通りの多い街中へ向かいました。
それから私は急いで家に帰り、念のため玄関前に盛り塩をして自宅で夜を明かしました。その晩は一睡も出来なかったのは言うまでもありません。
後日、私はドラレコ代わりにつけていたヘルメットの映像を確認してみることにしました。
あれほどの恐怖を感じたことなど今まで一度もありませんでしたが、数日経つとなんだか夢の中の出来事のようで、どうしてもあの夜何があったのか確認してみたくなったのです。
映像を確認してみると、不思議なことにあの車も男もどこにも映っていませんでした。
映像自体はしっかりと残っていましたが、あの怪異と遭遇した場面には、何も映っていませんでした。私は何も無い草むらを一心に凝視したかと思うと、軽い呻き声を上げて一目散に引き返していました。
ただ、彼が呟いていた謎の言葉だけは何故かしっかりと記録されていました。私は彼の抑揚の無い声を聞いているとあの夜のことを鮮明に思い出してしまい、冷房の効いた部屋の中でダラダラと冷や汗が吹き出てきました。
怖さのあまり動画を消してしまおうとも考えたのですが、その言葉の内容が気になってしょうがなく、せめて調べてから消してしまおうと思いました。
私は初め外国語だと思い、音声翻訳ソフトなどで音声を元に言語を割り出そうとしたのですが、どうも釈然としません。聞かせるたびに言語が変わるので、やはり意味の無い言葉だったのでしょうか。
ますます気になった私は、今度は音声を色々と分析しました。早送りで聞いたり、ハイピッチで聞いたりと様々試しましたが、逆再生を試した時、彼の言っていることが日本語であることが分かりました。
そして、彼はこう言っていました。
「おれ を ねらうな ころしてやる」
彼は、一体何者だったのでしょうか。
動画を消してしまった今は、もう何もわかりません。