ウマ娘キャラクター解説3:スペシャルウィーク
ウマ娘アニメ1期の主人公であり、ゲームでも強い人気をもつスペシャルウィークの現役時代について解説する。
本馬は誕生から波乱であった。
スペシャルウィークは1995年5月2日、父・サンデーサイレンス、母・キャンペンガールとの間に生まれた。
父はディープインパクトやサイレンススズカを輩出したことで知られる日本競馬史に名を残す名偉大な種牡馬であった。それゆえ本馬には誕生から多大な期待が寄せられていた。
しかし母のキャンペンガールは本馬を妊娠したとき腸の一部が壊死しており、本馬を苦しみながら出産。5日後には旅立ってしまう(母が死亡したとき、スペは別の馬房にいたのだがその死を察したかのように啼きつづけたという)。
母の愛を受けることができなかったスペは、当初ばん馬を乳母として乳をもらうことになるが、この乳母も気性が荒く容易に乳を与えないため、当初は人の手で人工的に授乳させることになった。
やがて乳母馬にもなつき始め、乳母馬もスペを受け入れ始めた。しかしばん馬は乳の量がサラブレッドより多いため、放っておくと仔馬は乳を飲みすぎて太り、ケガのリスクが高まってしまう。
9月初旬からスペと乳母馬は引き離された。最初は数日間啼き続けた2頭もやがて啼くのを諦め、乳母馬は元居たところに返された。
母を2回も失ったスペだが、本馬の前に再び無限の愛を注いでくれる女性が現れる。
当時牧場に働きに来ていた、ニュージーランド人のティナという人物である。アニメ『ウマ娘』でスペを母親代わりに育てる金髪の女性のモデルとなった女性である。
彼女はスペに惚れ込み、他の馬の面倒はスタッフに任せ付きっきりで世話するほどだった。
97年5月、スペはノーザンファーム空港牧場という育成牧場に移されることになった。トレーニングならここでもできるのに、と猛抗議するティナだったが、空港牧場には中央デビューの際スペシャルを預ける予定の白井寿昭調教師の息子が勤めており、空港牧場の方が円滑なコミュニケーションを取りやすかったのである。
5月20日、泣きじゃくるティナを引き留めながら、スペは新天地へ旅立っていった。
ちなみに、スペが入る前、空港牧場には一頭の将来有望な若駒がいた。後にスペと激戦を繰り広げる、グラスワンダーである。
牧場関係者が驚いたのは、チンタラ走っているように見えて、時計を見ると見た目以上のタイムを出していたことである。「この馬なら、ダービーも…」と考え始めたのも無理はない。
こうしてトレーニングを重ねたスペは、97年11月26日武豊騎手を背にデビューすることになる。
2戦目は公営名古屋競馬の14番人気・アサヒクリークに足元を掬われるも、続くきさらぎ賞では3馬身半差をつけ快勝。
4戦目の皐月賞トライアル・弥生賞では後にスペのライバルとして切磋琢磨していくセイウンスカイ、キングヘイローらと相まみえることになったが、2頭がそれぞれ2・3着になるのを尻目に勝利。皐月賞への切符を手に入れる。
迎えた皐月賞。デビューから素質を遺憾なく発揮していた本馬は1番人気に押される。
しかし当時は芝の保護のため皐月賞の前週まで内柵を3メートル外側に移動させて内の芝を守り、皐月賞の開催週に内側に移動させていた。これにより内側の走路に3メートル幅のキレイな芝生が生えた「グリーンベルト」ができ、内枠や逃げ先行馬に有利になっていた。
これを見逃さなかったセイウンスカイと横山典弘騎手。上手くスカイをグリーンベルトへ導き、絶妙なラップを刻んでいく。
一方スペは、大外8枠18番からの発走となり、今まで他馬に踏み荒らされた外側のコースを通らざるを得なくなり、思うようにスピードを発揮することができない。
結果、弥生賞で下したセイウンスカイとキングヘイローに先着を許し、3着に甘んじることになった。
次の目標は日本ダービー。実はこれまで武豊騎手は11年のキャリアの中で八大競走(桜花賞、皐月賞、優駿牝馬、東京優駿、菊花賞、天皇賞(春・秋)、有馬記念)のうちダービーだけどうしても勝てておらず、9回挑戦して96年のダンスインザダークでの2着が最高だった。
それだけに武豊騎手のダービーにかける思いは格別だった。レースでは10番手から虎視眈々と前を狙うと、直線一度先頭に立ったセイウンスカイを並ぶ間もなく抜き去り、2着ボールドエンペラーに5馬身差をつけたのである。
なおこのとき武豊騎手は念願のダービー勝利へ無我夢中でスペを追っていたため、興奮のあまりムチをどこかで落としたのに気づかなかった、というお茶目エピソードものこした。
秋は始動戦の京都新聞杯を勝利するが、三冠最後の菊花賞では、セイウンスカイがまたしてもグリーンベルト(当時の京都コースも、菊花賞開催週に柵の位置を内側へずらしていた)を活かして大逃げを打ち、なんと当時の芝3000mの世界レコードっで逃げ切ってしまう。一方スペは、セイウンに3馬身半及ばず2着に敗退。皐月賞と同じ負け方をしてしまう。
続いて陣営は古馬GⅠ・ジャパンカップへの出走を決定。武豊騎手がアドマイヤベガ(翌年のダービー馬)のデビュー戦で斜行し騎乗停止処分になったことで岡部幸雄騎手に乗り替わりとなる。しかしここで同期のエルコンドルパサーに完璧な競馬をされ、「女帝」エアグルーヴにも届かず3着に終わる。
しかもエルコンに「国内での勝負付けは済んだ」と捨てセリフを言われ、さらなる挑戦へ向けフランスへ旅立ってしまい、以降対戦することはなかった。これがのちのち尾を引くことになってしまうのだが…。
翌99年はアメリカジョッキークラブカップから始動。フランスが誇る世界的名手オリビエ・ペリエ騎手を背に3馬身差の快勝。続く阪神大賞典では4か月ぶりに武豊騎手に手綱が戻り、ここも勝っていい状態で春の天皇賞に向かうことになる。
天皇賞ではスペ、セイウン、前年の優勝馬メジロブライトの3強対決ともてはやされた。レースでは、スペは3番手から逃げるセイウンスカイをマークし、直線でセイウンを抜かすと追いすがるメジロブライトを振り切り優勝した。
これに自信を持った陣営は、スペの年内引退と凱旋門賞挑戦を表明。その壮行レースとして、宝塚記念が選ばれた。
しかし宝塚記念には、1頭不気味な存在が出走していた。スぺと入れ替わりで牧場を去った、あのグラスワンダーである。
朝日杯3歳ステークスをレコードで勝利し、「JRA史上最強の3歳馬」と評されスぺらとの対戦が熱望されたものの、骨折などケガに悩まされクラシック出走は叶わず、それでも有馬記念優勝や安田記念2着など実力をつけ、スぺと初対戦となった。
レースはスぺが5番手につけ、武豊騎手はグラスを探すようにキョロキョロ辺りを見回している。一方グラスと的場均騎手はスぺの真後ろにピッタリつけ、敵はスぺだけと徹底的にマークする。
たまらず3コーナーで手が動き、早くも先頭に立とうかという勢いのスぺ。それに食らいついていくグラス。先頭に立つスぺと武豊騎手だが、直線に入るとグラス・的場コンビが並ぶ間もなくスぺを交わし、スぺに3馬身をつける快勝でゴールイン。
これは名勝負であり、「相手はこれと決めたときの的場均は怖いぞ」「もう言葉はいらないのか」など名実況とされているので一回聞いてほしい。
この敗戦を受け凱旋門賞は白紙、しかも秋初戦の京都大賞典では生涯最低着順の7着大敗、秋の天皇賞へ向けた追切りでも格下相手に遅れを取るなど、「スペシャルウィークはもう終わった」と見られてしまうようになってしまった。
しかし陣営は違った。京都大賞典で増えすぎた体重を戻すべく体を絞らせ、ダービーのときの馬体重に近づけようとした。その甲斐あり、体重はマイナス16kgの470kg(ダービーは468kg)にまで戻すことに成功する。
するとシェイプアップして切れが戻ったのか、後方から大外一気の末脚で十数頭をまとめて差し切り、レースレコードで勝利。天皇賞春夏連覇を達成した。
続くジャパンカップは、外国から強力なメンバーが出走を表明していた。
まず同年凱旋門賞でエルコンドルパサーを抑え優勝したモンジュー
サンクルー大賞でエルコンの2着と好走したドイツ年度代表馬タイガーヒル
前年のイギリスダービー馬ハイライズ
フォワ賞でエルコンの2着に入ったボルジア
香港2冠馬のインディジェナス
…と多士済々なメンバー。1番人気こそモンジューに譲ったものの、前走で完全復活を印象づけたスペシャルウィークは「日本総大将」として2番人気を集めた。
レースでは日本の馬場に苦しむモンジューらを悠々振り切り、4つ目のGⅠタイトルを獲得する。2着はインディジェナス、3着にハイライズが入線し、モンジューは4着だった。
こうして勇躍引退レースの有馬記念に向かうことになったが、ここで筋肉痛のためジャパンカップを回避したグラスワンダーと再度激突することになる。
マークされ敗れた春の二の轍は踏むまいと、後方待機策のグラスに対し最後方からグラスをマークすることにしたスぺと武騎手のコンビ。
3コーナーでグラスが前を捉えようと上がっていくと、スぺも連れて上がっていく。
直線では差し切りを狙い前へ突進していくグラス。
それを猟犬のように追いかけるスペシャル。
グラスが前を捉え先頭に躍り出たとき、スペシャルもグラスに馬体を合わせていく。
そして2頭が抜け出したところがゴールだった。
クビの上げ下げの勝負。勝ったのはどちらなのか。
先にガッツポーズをしたのは武豊騎手。ウイニングランを行う一方、グラスと的場騎手は敗戦したかのようにがっくりと首を項垂れていた。
しかしスペシャルがウイニングランを終え、検量室に戻った時、掲示板に表示されたのは、グラスワンダーが1着だったことを示す数字だった。
実はゴール前後はスペシャルウィークが差し切っていたのだが、ゴールの瞬間だけグラスワンダーがグイっと首を前に出してスペシャルより4cmだけ前に出ていたのである。
スぺには不運だったが、スペシャルウィークはこの年GⅠ3勝2着2回と年度代表馬に選ばれてもおかしくない成績である。
しかし選考委員による投票で、これまで惨敗続きだった凱旋門賞で2着に入ったことが評価され、エルコンドルパサーが代表馬に選ばれグラスワンダーとスペシャルウィークは特別賞を受賞した。
しかしこの年に本国内で1度も走っていないエルコンが選出されたことへの批判は多く、また受賞には縁がないのか顕彰馬も逃している。
引退後は
GⅠ6勝をあげたブエナビスタ
アメリカンオークスを優勝したシーザリオ
菊花賞をレコード勝利したトーホウジャッカル
などを輩出し、母の父としても
菊花賞などGⅠ2勝のエピファネイア
イギリスのGⅠ・ナッソーステークスを勝利したディアドラ
など活躍馬に恵まれ、2017年に種牡馬を引退。
2018年に放牧中のケガがもとで死亡。享年は23歳。現在は故郷の日高大洋牧場で眠っている。