ウマ娘になりそうな競走馬解説1:ハイセイコー
ハイセイコーとは、高度経済成長に沸く1970年代の日本で活躍した競走馬で、実力で第一次競馬ブームを巻き起こした馬である。
今回は地方競馬の雄ともいえる本馬に焦点を当てたい。
ハイセイコーは1970年、父チャイナロック、母ハイユウの間に北海道の武田牧場で生まれた。
父は初年度から重賞で活躍する産駒を輩出し、'73年にリーディングサイヤーに輝く名種牡馬で、母は地方で16勝をあげ大井でもA3クラスというトップクラスで走っていた馬。
その間に生まれたため当初は中央デビューの噂もあったものの、オーナーが中央競馬で馬主登録をしていなかったこともあり、公営の大井競馬でデビューすることになった。
1972年6月にデビュー戦が組まれたが、素質馬の登場に恐れをなして出走を回避する馬が続出。なんと競走不成立となり、翌月にお預けとなった。
7月12日の新馬戦を、1000m59秒4のレコードで圧勝すると、その後は16馬身・8馬身・10馬身と他を圧倒する。しかも驚くべきは、目一杯追わずしてこの着差である。
5戦目の白菊特別では、自身の体調不良に鞍上も骨折明けという不安要素を一蹴し、初めて追われると7馬身差をつける快勝。
続く3歳重賞の青雲賞でもどんな圧勝を見せてくれるか、期待が集まったが…同枠のオーナーズミカサがゲート入りを嫌がった。当時の規定では同枠馬に除外がでると、その枠の馬も除外になる(当時発売されていた連勝式が枠連だけだった)ため、15分粘ってようやくオーナーズミカサをゲートに押し込めることに成功した。
しかしそんなハプニングもなんのその、7馬身差の圧勝を決める。
年が明け4歳になったハイセイコーはホースマンクラブに売却され、念願の中央移籍を果たすことになる。
注目の移籍初戦は3月に中山競馬場で行われる弥生賞。鞍上には、以後引退まで手綱を取り続ける増沢末夫騎手が乗ることになった。
弥生賞当日の人気はすさまじく、多くの観客が訪れたせいで観客席とコースを分ける金網を越えてコースに乱入する人が出たとか。
レースでは1馬身3/4をつけて勝利するものの、騎手の増沢は手応えを感じられず、本番の皐月賞の前にもう1戦挟むことにした。
中2週でスプリングステークスに挑むことになったハイセイコー。ここでもジリジリと脚を伸ばし、2着に2馬身半をつけたものの、圧倒的なパフォーマンスとはいえず、騎手や陣営にとっても満足がいかないまま、4月の皐月賞を迎えることになった。
皐月賞では、今までと違うハミ(ウマの口の中を通す馬具。手綱を動かすとハミがウマの口腔内に刺激信号として伝わり、騎手とのコミュニケーションを円滑にする)を装着させたりした努力が実り、3コーナーで先頭に立つとそのまま押し切り、地方出身として初めて皐月賞を勝利した。
皐月賞制覇後、ハイセイコーは日本ダービーにむかうことになった。しかしダービーの行われる東京競馬場は左回りで、ハイセイコーは左回りを経験したことがないため(大井競馬場は右回り)、陣営は左回り対策として急遽NHK杯への出走を決める。
ここはラスト200mからアタマ差抜け出し優勝したものの、無理なローテのせいで疲労が抜けきらないまま日本ダービーに向かうことになってしまう。
ダービー直前、ハイセイコーへの人気は頂点に達し、「東京 ハイセイコー様」と書くだけで厩舎に手紙が届いたり、『少年マガジン』誌の表紙を飾ったり、ネコでも「ハイセイコー」の名前は知っていると言われたり…
ダービーでは当時レース史上最高の単勝支持率66.6%を得て、レースでも直線入り口で先頭に立ったものの、皐月賞に出走できず打倒ハイセイコーに燃えていたタケホープと、皐月賞4着のイチフジイサミに交わされ、タケホープがダービーレースレコードで勝利する中0.9秒差3着に敗れてしまった。
そして勝ったタケホープを、ファンやマスコミは冷ややかな態度で迎え、ハイセイコーも掌返しをされたように「とうとう底が見えた」などと報道されたようである。マスゴミ…
秋は菊花賞を目標に調整することになり、始動戦の京都新聞杯を3頭と叩き合い2着になると、本番の菊花賞では2番手から3コーナーで先頭に立ち、押し切りを図るも、またしてもタケホープの追い上げを食らいハナ差2着に敗れた。
その後ハイセイコーは人気投票で90.8%の支持を集め、上位人気馬が出走できる競馬版オールスター・有馬記念に出走する。
有馬記念では、同年の秋の天皇賞馬・タニノチカラをマークして動くことができず、お互い牽制し合っているうちに2番手から逃げるニットウチドリを交わして優勝したストロングエイトの3着に敗れた。
この年の年度代表馬はタケホープに譲ったものの、ハイセイコーのファン人気を考慮すべき、との声があがり、JRA史上初めて特別賞となる「大衆賞」が与えられた。
明けて1974年、ハイセイコーの年明け初戦は1月のアメリカジョッキークラブカップ。しかし今までの疲労が抜けず、タケホープの9着に惨敗。
続く中山記念では、体調が戻ったこともありタケホープ(3着)に2.2秒差をつける圧勝でゴールイン。
春の天皇賞では、増沢騎手が宥めようとするも、かかり気味に3コーナーで先頭に立ってしまい、優勝したタケホープから1.0秒差6着に敗れる。
続く宝塚記念では1番人気をストロングエイトに譲り、ファンからの人気にも陰りが見え始めたものの、かえって気が楽になったのかこのレースをレコードタイムで優勝する。
次は名古屋のファンへの顔見せも兼ねて、高松宮杯に出走、ここも危なげなく勝利し、当時の獲得賞金日本一を達成した。
夏休みを挟んで京都大賞典に挑むが、62kgという斤量が堪え4着に敗退(それでも賞金加算に成功し日本競馬史上初の獲得賞金2億円以上を達成した)、続くオープン競走でも2着に。
このとき鼻出血を発症し、「発症から1ヶ月間はレースに出走できない」という当時の規定により秋の天皇賞を断念、引退レースの有馬記念に向かう。
レースでは逃げるタニノチカラを追い、直線入り口ではライバル・タケホープとの3頭の鍔迫り合いになるもの、タニノチカラが直線で差を広げハイセイコーに5馬身差をつけ優勝。
ハイセイコーは、迫るタケホープをクビ差抑え、2着を確保した。
その後ハイセイコーは、北海道の明和牧場で種牡馬としての生活を送り、引退後もその姿を見ようと観光客が訪れた。現在競馬ファンが馬産地や繋養先の牧場を訪れるのはさほど珍しいことではないが、そのきっかけはハイセイコーだと言われている。
また1976年公開の映画『トラック野郎・望郷一番星』でも出演していると話題になり、新冠町の知名度アップに貢献した。
引退に合わせ制作された、増沢騎手が歌う『さらばハイセイコー』は1975年1月の発売から人気を博し、オリコンチャート4位、50万枚を売り上げるヒットとなった。
種牡馬としても、
1979年日本ダービー馬・カツラノハイセイコ
1989年エリザベス女王杯優勝・サンドピアリス
1990年皐月賞馬・ハクタイセイ
など活躍馬を輩出し、90年には地方競馬のリーディングサイヤーになるなど活躍。1984年に今までの活躍が認められ、顕彰馬になった。
それまで日陰の競技と後ろめたく見られがちだった競馬を、女性や子ども連れも行けるようになり、競馬への世間の認識が変化するのに大いに貢献した。
2000年5月4日、心臓麻痺により30歳で死去。ビッグレッドファーム明和にある墓碑には、「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」と刻まれている。
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