ウマ娘になれなかった競走馬たち1:高知の最強馬・ハッコウマーチ
今日、高知競馬で脚光を浴びたハルウララがスマホゲームで再度注目を集めています。
しかし、高知競馬が生んだスターホースはハルウララだけではありません。ハルウララとは逆に、連勝街道を進むことで人気を得た馬もいるのです。
今回はハルウララと真逆の馬生を歩んだ、ハッコウマーチという馬を紹介したいと思います。
1.デビューと園田時代
ハッコウマーチは、1989年に北海道三石で誕生したアングロアラブです。
アングロアラブとは、サラブレッド種とアラブ種を交配させることで誕生した、アラブ種の血量が25%以下の馬を言います。
丈夫で頑丈なアラブ種と、スピードに優れたサラブレッド種を掛け合わせることで両者の良いとこ取りを狙ったものですが(アラブ種は軍馬に向いていたため、戦後に軍の管理から解放されたアラブ種が競走馬になった、という事情もある)、基礎スピード能力でサラブレッド種に劣るため、かつてはアングロアラブ・アラブ種限定競走が地方を中心に組まれていました。
しかし、徐々にサラブレッド種との交配が進み、8代前までサラブレッド種が交配され続ければサラブレッド種として認められるため、現在アラブ競走を行っているところは皆無に等しいです。
ハッコウマーチが生まれたのは、アラブ競走が衰退に向かいつつある時代。当時アラブ競走が盛んに行われていたのは園田競馬場でした。ハッコウマーチは祖父に、アラブダービー覇者でアラブ最強馬と呼び声高いスマノダイドウがおり、その園田でデビューすることになります。
デビュー戦こそ勝利するものの、3歳時は8戦して【1-1-3-3】という、堅実だがパッとしない成績に終わる。
しかし4歳になると、兵庫アラブ三冠競走の第1関門である菊水賞を勝利。2冠目の楠賞全日本アラブ優駿を4着、最終戦の六甲盃を2着など堅実な成績を残し、4歳時は12戦で【3-4-1-4】と抜群とは言えないまでもそこそこの成績を上げました。
しかし古馬になってからは屈腱炎の影響もあり5歳1時は2戦、6歳時は1わずか1戦しかできず、満足にレースに出られないまま休養を繰り返すハメに。
そこで陣営が選んだのは、高知競馬への移籍でした。
2.高知へ移籍
ハルウララのページでも触れましたが、高知競馬は、プロ野球でいうヤクルトスワローズよろしく、競走馬の再生工場と見なされていました。そこに陣営は望みをかけたのです。
高知に移籍したハッコウマーチは、1995年2月に復帰レースを勝利。
すると、高知の砂がマッチしたのだろうか。5連勝…10連勝…と勝ち星を増やしていき、95年は15戦全勝を達成。
3.日本記録挑戦へ
翌年に入っても勢いは衰えることなく、6月には20連勝を達成。そして12月1日の山茶花特別で、1967年にトモエゴゼンが記録した、日本記録の26連勝に達したのである!
こうなると次は日本新記録!ということで、大晦日の12月31日に行われる高知市長賞に出走が決まります。
当日は日本新記録を一目見ようと、多くのファンが訪れ、当時実況を担当した橋口浩二アナによれば、実況席にまで歓声が届き、マイクがそれを拾ってしまうほどだったと言います。
しかし、いつもと違う異様な盛り上がりに圧倒されたのか、ハッコウマーチはゴール前でバイタルサインに差され2着に敗れ、おしくも記録更新とはなりませんでした。
4.晩年
翌97年も現役を続け、かつて自分がデビューした兵庫でアラブ三冠を達成し、兵庫最強アラブと目されていたケイエスヨシゼンをアラブ大賞典で0.1秒差2着に下すなど3連勝を記録した後、高知の開設記念2着を最後に引退しました。
一度は屈腱炎で競走生活を脅かされたものの、他競馬場に移籍することで本来のポテンシャルを発掘し、遠征先で強豪すら破るほどまでに成長したハッコウマーチ。この馬のすごさは、もっと知られてもいいと思います。
※引退後のハッコウマーチの動向ですが、調べても分かりませんでした。ご存じの方がいれば、教えていただけると幸いです。