歴史上の人物も逃亡の名人だった!?
こんばんは。ハリーです
去年の大晦日、ある出来事が日本中を駆け巡りました
カルロス・ゴーン元日産会長の逃亡です
この件についてはさんざんニュースになったので取り上げませんが、要は自分の給料を低めに申告していた容疑で逮捕・保釈されたゴーン容疑者が勝手に母国のレバノンに逃げた事件です
この際、「楽器用の箱に入り飛行機に乗った」と言われておりますが、世界史にはもっと色んな方法で逃亡を図った人物がいるのですよ
今回はそれらの人物について紹介したいと思います
1.ナポレオン三世
*ナポレオン三世(Wikipediaより)
はじめに、フランス最後の皇帝(現時点で)であるナポレオン三世です
彼はかの有名なナポレオン=ポナパルト(1世)の甥(弟の息子)として1808年に生まれます
しかし1815年に叔父のナポレオン=ポナパルトが完全に失脚すると、幼い彼はスイス・ドイツ・イタリアなどを転々とします
その後、1836年にヴィクトール・ド・ペルシニーという男に唆され、「私こそフランスの正当な後継者だ!」とクーデタを計画します
しかし、ナポレオン1世の甥が立ち上がれば民衆も勝手に蜂起するだろうという彼の目論見は失敗(当たり前だ)
逮捕された彼は、アメリカへ追放されてしまいます
しかし時の流れは分からないもので。世間でナポレオン1世が再評価されはじめます
これはときの政権が人気取りのため利用したに過ぎないのですが(まあ本人はこの世にいないし、三世は国外追放中だし)
これを見た三世は、「今こそチャンス!!」とばかりブローニュという都市に再上陸し
「あれ?あんた追放中の…」と正体を見破った税関の職員を人質にとり、「もう一度立ち上がろうぜ!!」と論説するも
やはり今回も賛同する人はなく、あっさり捕まりました(呆れ
裁判では死刑確実な状況でしたが、裁判官たちがナポレオン1世に恩のある人ばかりだったので、終身刑に減刑されました
こうして彼はアム要塞に入獄することになったのです
5年半にわたって刑に服していた三世ですが、父が危篤になったと聞き三世は仮出獄を願い出ます
しかし政府はこれを拒否
いてもたってもいられなくなった三世は、脱獄を計画します
まず彼は、出る者への警戒は厳重だが入る人間にはチェックが甘いことに目をつけます
そこで自分の住む居住区域の工事を行いたいと申請し、「まあ、工事だけなら…」と許可されます
そして出入りする作業員の中で、自分によく似た「パンゲ」という人物に注目し、作業着を手に入れます
1846年5月25日、三世は伸びた髭を剃り、作業服に着替えました。次に予め用意したマネキンを身代わりにベッドに寝かせ、毛布をかけました
さらに発見を遅らせるため、医師を通して看守たちに「あいつは今日体調が悪いから、今日一日寝かしておいてくれ」と伝えました
朝6時45分、パンゲと同じパイプを咥えパンゲになりきった三世は板を担ぎ部下とともに牢獄を出ることにしました
第一ゲートはクリアしたものの、第二ゲートの前で誤って口にしたパイプを落としてしまいます。しかし、彼は動じることなくパイプのかけらを集めポケットに入れたため職員も気づくことなく通しました
門を出てようやく脱獄成功…というとき、すれ違った職人から「あれ、お前パンゲに似てるけど違くね?」と疑いを持たれます
もはやこれまで…
しかし、職人はこれ以上突き詰めることなく通り過ぎます
そして牢獄の職員がナポレオン三世の脱獄に気づいたときには、もうブリュッセル港に着き、悠々とイギリスへ亡命します
その後周到に時期を見極め、1848年の議員補欠選挙で政治家デビューし、「ナポレオン」という字を頼りに民衆の人気を取りフランス大統領、やがてフランス史上2人しかいない皇帝に登りつめるのです
2.范雎(はんしょ)
*当時の中国の様子。范雎の画像がないのでこれで代用(;^ω^)(Wikipediaより)
范雎(はんしょ)という人物を初めて聞いた読者も多いと思います
范雎は今から2200年ほど前の人物で、のちに中国を統一する秦に仕え、まだまだ弱かった秦が強くなる礎を築いたといえばどんな人物かだいたいイメージがつくと思います(笑)
彼は秦の隣、魏の出身で魏の役人の元に仕えていました。あるとき、魏の使者として斉(画像の一番東にある国)に行きました。このとき、彼の有能さを知った斉の王様から大量の褒美を下賜されるのですが、彼はこれを断ります
しかしこれを聞いた上司が、魏の機密情報を売った見返りに大量の褒美を貰ったと誤解。帰国した范雎は逮捕され、拷問を受けます
酷い、何もしてないのに…
しかも見せしめのため、范雎をスノコでぐるぐるに巻き、ボットン便所へ突き落し、その上でトイレするという屈辱を与えます
…いや、いくら人権がない時代とはいえいくらなんでも…
番人の手助けでなんとか救出された范雎は、友人の元へ身を寄せます。そこで秦の高官である王稽(おうけい)が人材を集めていると聞き、王稽に会いに行きます。そこで范雎の有能さを見抜いた王稽により秦へ入国することにします
しかしここで問題が起こります
秦の宰相(総理大臣)である穰侯(じょうこう)という人物が、自らの権力を固めるため他国から論客が来るのを拒み、自ら巡回していたのです
穰侯は時の国王の母の弟であり、実権や領土の多くを母親の一族が握り国王の権力は抑えられていました
穰侯に見つかれば魏へ強制送還され、どんな容疑で罰せられるか分かったものではありません
絶体絶命…!范雎の運命は…!!
穰侯が近づくのを見た范雎は、王稽の馬車の中に隠れます。穰侯から密入国者について尋問される王稽ですが、王稽はこれをやり過ごします
穰侯が立ち去ったのを見て、王稽は范雎を車から出します
これで一安心…かと思いきや、范雎は王稽に言います
「彼は適当な人物のようです。車内を捜索するのを忘れてたようです。きっとすぐ捜索に戻るでしょう。そこで私は車から降りてやり過ごすことにします」
果たして、彼の言う通りしばらく進むと騎兵がやってきて、王稽の馬車の中を徹底的に探索します。当然范雎は見つからず、ずこずこと騎兵は帰っていきます
こうしてなんとか秦に入国できた范雎は、始皇帝の曽祖父である昭襄王に仕えることとなり、昭襄王と組んで穰侯およびその一族を追放し、国王の権力を確立させます。また穰侯の代わりに宰相に就き、国境の接しない斉や燕と仲良くし隣国の魏や韓、趙、楚を攻撃する「遠交近攻」策を展開。秦の国力増強に辣腕を振るい続けるのです
3.護良親王(もりよししんのう)
*護良親王(Wikipediaより)
范雎のエピソードで連想される人物といえば、この人物が想起されます
またこいつ誰や?と思いますが、この人物は鎌倉幕府滅亡に一役買った人物で、後醍醐天皇の息子です
簡単に略歴を紹介すると、
1308年に第96代天皇(当時はまだ親王)後醍醐天皇の息子として生まれ、6歳で比叡山延暦寺に入る
父が1331年に鎌倉幕府打倒を掲げ挙兵すると、父を京都の笠置山に避難させ抗戦する
*笠置山(Wikipediaより)
笠置山が鎌倉幕府軍によって陥落すると、奈良県の吉野に潜伏し、幕府軍をゲリラ戦で苦しめたり幕府打倒を全国に呼び掛ける
幕府滅亡後「一番功績があったのは俺だ!」と言い、天皇による独裁政治を目指す父の後醍醐天皇、後醍醐の独裁に反対するもう1人の功労者・足利尊氏それぞれと対立
天皇から征夷大将軍に任命されるも、やがて謀反の罪を着させされ鎌倉に幽閉、幕府の残党が鎌倉で挙兵すると暗殺される
どうでしょう?なかなか波乱万丈な人生ですね(^-^;
今回ご紹介するのは、彼が幕府に抵抗して吉野を転戦していたときのお話です
1331年、幕府軍に追われた護良親王は般若寺というお寺に逃げ込みます
*般若寺。現代では「コスモス寺」として有名です(Wikipediaより)
追手は500人。いかに護良親王が強くても、1対500は無理ゲー過ぎます( ;∀;)
まず護良親王はお経の入っていない空箱に身を潜めます
直後に般若寺に侵入する幕府軍。彼らはまずお経の入っている箱をひっくり返します
しかしそこに護良親王の姿はなく、諦めて別の部屋を探します
そこで気づきます「そういえば、空の箱調べてなくね?」
急いで戻り、空の箱を調べはじめる幕府軍
危ない、護良親王!!
しかし、追手が別の部屋に行った隙に親王は調査済みの箱の中へ逃げ込んでおり、まさか一度調べた箱の中にいるとは思わず追手は引き上げました
こうして難を逃れた親王は、打倒幕府へ邁進していくのです
いかがでしたでしょうか?お尋ね者としてユニークな方法で脱出を図り、皇帝、宰相、将軍になるのですから人生は分かりません。まあ、ゴーンの場合は復権することはなさそうですが…。今後のゴーンの動向に注目ですね!