13「死神」✵黄泉が来たりて②
①では、絵画の寓意や象徴を通して「死」を覗いてみました。
絵画では生命の直接的な「死」(いわゆる人の死)を示唆するものですが、タロットの「死」ではそれだけでなく「人生のあらゆる場面や段階に「終わり」(と始まり)がある」ことを表しています。
つまり、最も遠ざけたい「死」は、多層的に姿を変え、意図せず私たちの生活や人生と常に共にあるのです。
オリジナルタロット
死者を思い起こすような青い肌に「死」を象徴する黒いマントをまとったハデス。
ハデスが一歩踏み出すたび、みずみずしい緑の大地は瘴気にあてられたかのように暗く無機質な土に変色しているようです。
足元には、枯れ葉や強剪定された木が見えています。
もはや、刈り取りというより根絶やしにしているかのよう。
兜の房が赤いのは、そんな恐ろしい仕事に意気揚々と取り掛かっていることを表しています。
ハデスの生気や感情の見えない瞳の先には、華やかで美しいバラ。
死を超越した愛や再生を表す赤、反対に純潔や死を表す白、の二つが混じった色なのは、どちらの要素も兼ね備えた(もしくは決めかねている)私たち人間のようです。
今まさに狙いを定め、その細い茎を断ち切ろうとしています。
これまでのカードで出てきたものとは全く異なる、重々しい漆黒の鎌。
バラは、咲いてはいけない場所で育ってしまったのでしょうか。
飽きられてしまい、他のものが植えられることになったのでしょうか。
時がめぐり、バラの寿命が尽きて剪定されてしまうのでしょうか。
ハデスに刈り取られる理由は、残念ながらこのカードからはわかりませんが、その鎌から逃れるすべがないことはわかります。
けれども、手前にあるバラが刈り取られたとしても、次の物語への希望があることが背景からわかります。
背景に流れる川は、ギリシャ神話の冥界にあると言われる「忘却の川レテ」のよう。
再生に向けた航海をする船なのでしょうか。
黄泉につながった川なのであれば、ギリシャ神話『オデュッセイア』にある「冥界下り」を終えた英雄オデュッセウスの船にも見えてきます。
あるいは、エジプト神話のナイル川だとすると、昼は生者の国、夜は死者の国を行き来するという太陽神ラーの船だとも考えられます。
洪水であるゆる生命が流される中で耐えたノアの方舟の可能性も。
船は情熱を意味する赤色の帆を掲げており、また、「左側を過去、右側を未来」と考えると、船の進行方向からはまだ物語を進めようとする意欲が船から感じられます。
いずれにせよ、船が運航しているということは、この地から次の場所へ運ばれる生命は全て失われたわけではないようです。
川に注ぐ滝の上には「生命の源」太陽が。
(この世とあの世を区切る?)門の向こうは「生命が生まれる」あるいは「生命が還る」場所なのかもしれません。
新しい時を告げる夜明けなのか、一日の終わりとなる夕暮れなのかはわかりません。
とはいえ、目の前で繰り広げられるハデスの行いは「日が昇りまた沈む」サイクル、つまり時の流れの中の一つの場面(プロセス)であることかわかります。
どんな理由があるにせよ、時の流れにしたがって、ハデスはこの土地での栽培されたものを終わらせる役割を担っているのです。
失うこと。
手放すこと。
終えること。
あるいは、終わってしまうこと。
時には、痛みや悲しみ、虚しさを伴うこともあります。
とはいえ、このカードは「終わり」のタイミングが来たことを告げるのです。
けれども、終わらせることで始まるものもあります。
(例えば、眠ることで今日の自分が終わり、明日の新しい自分が始まるように)
巡りゆく日々の中で私たちは常に「小さな死」と共にあることを考えると、
枯れた花がまた次の生命を育む養分となり、やがて大地も豊かな緑へと復活するはずです。
カード(物語)はまだまだ続きます。
「死」でさえも、この物語の結末ではありません。
私たちは、そんな壮大なサイクルの中に生きているのです。
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