_大震災の記憶_-1

大震災の記憶(神戸新聞「随想」第3回)

阪神・淡路大震災から25年が経ちました。あの時の記憶は、かなり加工されながらも私の脳裏にはっきりと残っています。その思いを神戸新聞の「随想」第3回目につづりました。

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台風15号により甚大な被害を受けた千葉県の様子は、阪神・淡路大震災直後の神戸の街を思い出させた。

1995年1月17日早朝、私の母の電話でたたき起こされ、テレビをつけて驚愕した。神戸市内の状況を知るため、そのまま2日間そこを動けなかった。

携帯電話もインターネットもほぼない時代、電話は通じず、安否を知るにはテレビしかない。家の近くの高速道路が横倒しになった映像を見た瞬間「ああ、これはダメかもしれない」と覚悟した。

連絡が来たのは18日の夕方。公衆電話に長時間並んだ夫の母からの第一声は「ああ、よかった、そっちはもうあらへんかと思った」。

神戸がこんなにひどいなら、大震災が来ると予言されている東京は壊滅したと思ったらしい。

神戸の母らしさに少しほっとし、両親や親戚は無事であること、家は根太から折れたこと、母の実家に身を寄せていることを知り、とにかくそちらに向かうと返事していた。

鉄道は不通で、多くの人は尼崎から徒歩かバイクで神戸に入る様子が報道されている。その時、私が秘書をしていた北方謙三氏が連載中の雑誌記者から「飛行機が飛んでいます」と連絡をもらう。

どうやら一般への情報は制限されていたらしく、震災発生後三日目でも関空までの便はすぐに取れ、ベイ・シャトルも航行していた。

船に乗って神戸を見ると、黄土色の雲のドームにすっぽり包まれている。禍々しいその正体は、屋根の下や道から巻き上がった土けむりだと後から教えてもらった。

両親はパジャマの上にコートを羽織って、避難先で迎えてくれた。空は冴えわたり、しんしんと寒さが染みる夕刻だった。(神戸新聞2019 10/10)

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