贔屓のお店(神戸新聞「随想」第4回)
阪神淡路大震災で、夫の両親の家は全壊しました。舅は戦後、自分の母親と妹とともに福井から神戸に出てきて、川崎製鉄の工員となり、小さな家を建てたことを誇りにしていました。その家が目の前で崩れ落ちたことは、彼にとってどれくらいショックだったでしょう。私にとっては感謝してもしきれないお店の物語です。
神戸新聞「随想」連載の4回目です。
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震災の後、いわゆる「災害ユートピア」的な興奮が薄れると、精神的な荒廃が来た。被害者となったのは父だった。「老人性痴呆症」という容赦ない病名を付けられたのは70歳になるやならずの時だ。
母は、当時珍しかったリハビリの病院を大津に見つけて通い始めた。家も再建し町に落ち着きが出てくると、父の容態も安定し、穏やかな生活は長く続いた。
さて、神戸には美味い食べ物屋がたくさんある。美食家の両親と震災前からあちらこちらに探しに出かけ、好みの店を何軒か作った。年に数回、帰省すると、今でもそのどこかに行くのが恒例だ。
その中に「楠山」というかカウンター天ぷらの店がある。JR元町駅から三宮方面へ向かうセンター街の二階、8席しかない小さな店だが、ここは大の贔屓となった。
季節のタネを目前で揚げてくれ、熱々の天ぷらを楽しみつつ、店主と話すのは楽しい。息子夫婦より健啖家の父は、いくつも追加を頼みいつも満足げだった。
父の認知症は10年以上かけて少しずつ進行した。
年に数回会う楠山の店主は、その様子をずっと見てきてくれた。少しずつ口数が減り、いま何を食べたか忘れ、店の名前を忘れ、どこにいるのかわからなくなっていく様を、カウンターの中から静かに見ていてくれた。
父との最後の外食もこの「楠山」だった。父はカウンターに座り、延々と大根おろしを「美味しい、美味しい」と食べ続けた。天ぷらに箸を付けなくても、店主は何度もおかわりをしてくれ「よかった、よかった」と笑っていてくれた。
贔屓の店は持つものだ。一緒に年を取ってくれる店は貴重だ。いまでも母のお気に入りの店である。(神戸新聞「随想」2019・10/9)
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