能町みね子「結婚の奴」(読後2週間の感想)
初めて読んだ日から、2週間くらいが経った。今だにこの本のことが頭と心のどこかから離れなくて、生活の中でヒョイヒョイ顔を出してくる。でもこの本、薬でもあり毒でもあるんだよな。気持ちのタイミング悪く「結婚の奴」を読んで感じたこととかを思い出すと「ギャーーーー」って脳内の本を破りそうになる時もある。(実際には手に取りやすいところへ丁重に置いてあります)
昨日、大好きな女の人とご飯を食べに行って、「結婚の奴」の話をした。「すごい素敵な本だよね」ってサラリという彼女がちょっとうらやましかった。彼女は彼女で、結婚というものに対するスタンスがしっかりしていて、折り合いがついている人。一方の私はまるで折り合いが付いていない。
6/2時点の感想で、
「私にとって結婚は、自分の人生がもっと面白くなるためのチーム構築なのかもしれないな。そうなれば別に恋愛感情がなかったとしても、チーム員として最適な相手ならいいのかもしれないとか、年齢に縛られなくていいのかもしれないとか、なんか自分自身が柔らかに物事を取れるようになったのがよかった」
って言ったけど。前言撤回はしないけど!素直にこの気持ちで折り合いがつくには、まだまだ世の中の常識の中でもがいてみないとダメだと感じたので、その迷いを書いておく。
まだ世間の常識に当てはまることができる(かもしれない)私、というものに憧れがあるし、むしろ未練みたいなものに限りなく近いんじゃないかと思うけど、人を愛したいし愛されたいよ!というアホくさいほどのど正直な気持ちがぐるぐるしている。今なら「怪獣のバラード」に出てくる怪獣の気持ちが分かる自信すらある。そりゃ砂漠に住んでいたって、怪獣にも心があるんだから、海も見たいし人も愛したいよね。
こと恋愛においては、決して、愛されない人生だったとは思わない。こぼれるほどの愛を注いでくれた人はいる。でも何故か、イマイチ信じきれなかったのだ。これは私の人間性に大いなる責任がある、ごめんなさい。私めなんかに無尽蔵の愛を注ぎ込んでくれる人なんかいないんじゃないかって心のどこかで思っています。結局、手に入れるところまでが楽しいんじゃないのって。
愛せない人生だったかと言われると、こっちの方が近いかもしれない。愛するってなんだ?って思った時に一番に思い浮かぶのは実家の愛犬なんだけど。彼女のためなら何だってしてあげたい。ずっとくっついていたい。これを愛と呼ぶなら何故この感情を人間に置き換えられないのか。ていうかこの感情ってデフォルトで人間に搭載されてるはずじゃないの?え?
そもそも、愛される星の元に生まれた人と、愛せる星の元に生まれた人と、愛がイマイチ分からない人っていうのはガチャのレベルで振り分けられていると思う。人生リセマラさせてくれ。愛する方法が分からないから、愛される実感もないんだろうなあ。
逃げ恥の再放送を観てても、
「いいなあ。愛される人は、良いなあ。」
このセリフばかりがしみる。
愛される実感と、愛する実感がイマイチ分からないから、結婚に対しても世間一般で言われる憧れも浮かびづらい。そのくせ、結婚はしたい。
結婚したい理由は、もしかしたら自己肯定感を感じたいからなのかもしれない。血縁ではない、家族ができること。元々は他者だった人が、自分の人生の味方になり得ること。お互いが味方である夫婦関係が憧れなのだ。それに伴って、その人といることでお互いの人生が、豊かで、面白いものになったらめちゃくちゃ良い。
まだまだ折り合いはつかなさそう。いつまで苦しんだらいいんだ。