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コグモちゃん

職場のキッチンで洗い物をしていると、小さな蜘蛛がぴょんと出てきた。
『うわっ、蜘蛛!』
不意打ちすぎて驚いた。
コグモは子供の蜘蛛なのか、それともその大きさが成人なのかは定かではない。

コグモは人間社会の中に溶け込んでいるように見えた。その様子はとても無防備で、安全は保証されていると言わんばかりに危機感がみられなかった。
『よう! デッカイの!』
そんな余裕ぶっこいた声が聞こえてきそうなほどで、私は少し不安になった。
 
この職場には、虫を見たら反射的に殺す習性を持つ田中さんがいる。彼女はとてもいい人だが、虫に対しては厳しい。
蜘蛛嫌いの若い女性職員、鈴木さんもいる。
彼女達に見つかったら、きっとコグモは一瞬にして息の根を止められるに違いない。
 
コグモは私から距離を取るように、ぴょんぴょんと飛び跳ねると、IHコンロの傍の壁に止まった。

ベージュの色を持つ、肉厚タイプのコグモ。
もしもこれが小指の先ほどの小さなサイズでなかったら、例えば幼児の手のひらサイズのアシダカグモだったなら、私は悠長に洗い物などできなかっただろう。
しかし、私の目に映るコグモは人間界でいうと妖精サイズ。私の脳内では、かわいいと判断された。
私はコグモを、職場でのペットとすることにして、自由にさせておいた。
 
コグモはたまに、私がキッチンにいるとひょっこりと出てきて、無防備にぴょんぴょんと飛び跳ねた。
小さな身体でかなりのジャンプ力だ。
コグモを人間に置き換えて考えると、走り幅跳びで全国大会ぐらいは狙えそうに思う。

コグモは私がガチャガチャと洗い物をしていても近くにいて、私の存在に恐れおののき慌てて逃げる行為は見せなかった。
私が声をかけると、まるでかんれんぼをするかのように食洗機の隅へと隠れた。
私はいつも鬼の役目ばかりだった。

そんなアクティブに動く時もあれば、止まったまま、ぼんやりとしている時もあった。
そんな瞑想時のコグモが不意打ちで殺されない為に、虫を見たら反射的に始末してしまう同僚の田中さんに念を押した。

「田中さん、ほら、ここに蜘蛛がいるでしょ?」

「うわ! ちょっと待って!」

やはり田中さんはティッシュを抜き取り始末する体制を整えだした。

「ちがうの! 殺さないでって言いたかったの。この子は私のペットで、このキッチンに住んでもらってるんだから。これから先もこの子がひょっこり出てきても絶対殺さないでってお願いしたかったの」

田中さんは、「ペットなの~!?」と言って豪快に笑い出した。それから、絶対殺さないと約束をしてくれた。
 

数日後。
休憩から戻ってきた私に、田中さんが申し訳なさそうな顔で言った。

「怒らないで聞いて欲しいんだけど、あの蜘蛛ね、ゴミ箱へ捨てたから」

「え!? なんで?」

「鈴木さんが見つけて、怖いっていうもんだから……」

ああ、ついに蜘蛛嫌いの鈴木さんに見つかってしまったのか。と、残念に思った。

「私のペットだったのに……」

悔しさを噛み殺して呟くと、同僚達は大声で笑い出した。

「ペットってなんなんっすか~!」と、ケラケラと陽気に笑う声がユニットに響き渡る。

「いや、ペットというか、友達。でもとうとう始末されちゃったか……」

無念だった。
しかしここは私だけの思い通りにできる空間じゃないし、色んな思いを持った人間と共に仕事をする場だ。
だから仕方がない、のか……。

「でも安心して。殺してはいないのよ。ビニール手袋で捕まえて縛って閉じ込めてあるの。そこのゴミ箱に捨てたから、まだ生きてると思うよ」

田中さんはコグモをビニール手袋に閉じ込めて、生きたままゴミ箱に捨てていた。
確かに、絶対殺さないと約束をしただけはある。だけどこれでは焼却場で生きたまま焼かれる運命だから結果同じじゃんとツッコミたかったが、田中さんはコグモを殺さないという約束を守ってくれていたのだ。

「私、外に逃がしてくる」

それをゴミ箱から取り出すと、ビニール手袋の封をハサミで切り、中指の先辺りで警戒しているコグモの安否確認をした。まだ生きているようだ。
その際、蜘蛛嫌いの鈴木さんはビクビクしながら私を、宇宙人をみるような視線を飛ばしながら、引きつった顔をしていた。

「絶対落とさないでくださいね! 落ちた時点で私、殺虫剤撒きます! ものすごく遠くの外に捨ててきほしいです! もう二度と戻ってこれないように、お願いします!!」

そんな大きな人間が、こんな小指の先ほどのコグモにビクつくなんてどういうことか。
私はコグモを外へと連れ出した。
 
ここから最も近くの外で、お気に入りの場所があった。
南側にある花壇に、膝丈のサイズほどの南天に似た木が並んでいる場所だ。
その木は赤い実を付けたことは一度もないが、実が成らなくても葉っぱのみで価値がある。その木が見せる赤は何かを訴えてくるようで、私をしばらくフリーズさせるほどの美しさがあった。
私は毎日南側の居室へと訪室した際に、窓際で日向ぼっこをする利用者様と一緒にそれを眺めては癒されていた。

『ここは私のオススメの場所なんだけど、あなたにとってはどうかな?』

私は、その南天の葉の枝にビニール手袋を括り付けた。
揺らしてみるが、コグモは中で留まったまま出てくる気配がない。大分警戒しているようだ。外は寒いだろうし、ユニットのキッチンでぬくぬくとしていた環境とは大分変わってしまった。戸惑うのも無理もない。

『この赤色、あなたも気に入ればいいけど』

コグモはなんの反応も見せず、ビニール手袋の中指に留まったまま、身を縮ませていた。
 
翌日、ビニール手袋の中に隠れていたコグモの姿は無くなっていた。
近くに隠れているのか、ここが気に入らずに他の地へと移動したのか……。


あれから時が経ち、南天の木の葉は赤色から緑へと変化しつつあった。
私が置き去りにしたコグモは、少しは大きく成長したのかもしれない。
私と言えば、特に変化のない毎日の中、それなりに笑って生きている。
だからコグモも、どこかで楽しくのほほんとして暮らせていたら嬉しい。
私はしばらくの間、赤色から緑へと変化しつつある南天の葉を見ていた。

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