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特別な朝
昨日オレ、何時から寝てた? と問われて、8時前には寝てたと思うよ。と応えた。
今朝の挨拶は、『おはよう』ではなく、そんな会話から始まった。
連日の睡眠不足が解消されたようで、息子の表情は清々しい。
私はお弁当を包み、食卓のテーブルに置くと、水筒にお茶を注いだ。その間も息子は、良い睡眠が出来たことを喜んでいた。
「味噌汁だけでも飲む?」
朝食は食べない息子に、一応聞いてみる。
胃の中に物を入れると、高速バスの長い時間の中で催してしまうのを恐れ、朝は胃に物を入れない習慣が息子にはあった。
「塩分か。そそられるな。飲みたいけど、どうしようか……」
「半分だけでも飲んでみたら? もしもの時の薬、持ってるよね?」
息子は少し考えてから、飲みたいな。と言った。
私はお椀に味噌汁をよそうと、息子の前に差し出した。
息子はそれを一口飲んでから、目を閉じた。
「ああ~沁みる……」
そう呟いて、味噌汁を存分に味わっているようだった。一口飲んでは目を閉じ味わう姿は、修行僧を連想させた。
普通の味噌汁にその反応、少し大袈裟過ぎやしないか? と思ったが、息子が味噌汁を味わう姿は丁寧だったので、大袈裟という言葉は合わないな、と思わされた。息子は朝の味噌汁を、ゆっくりと飲み干した。
息子を玄関先で見送ってから、娘を起こす。
なかなか起きられないようだ。3度目の声かけで、寝室からキッチンへとやってきた。
「今日の予定は?」
「……うん。家にいて、絵を描くよ」
「そう。朝ごはんは?」
娘は首を横に振った。
学校へ行く息子と、学校へ行けない娘。私はそれぞれの個性の子供達と日常を共にしながら生きている。朝食を食べたくないなら無理に食べなくてもいいと思うし、無理強いもしない。しかし、今日の味噌汁がとても美味しかったので、私は娘に声をかけた。
「朝ごはんいらないなら、飲み物はどう?」
娘は幼い頃から味噌汁が好きだった。
今でも夕飯に汁物がプラスされていると、目を輝かせて、「ラッキー!」と言う。朝はテンションが低くて朝食を食べない娘にも、この味噌汁のパワーは通用するのだろうか……。
「おいしい……」
娘はそう呟き、特別でもない普通の味噌汁を飲み干した。
次は私が娘に見送られて、玄関を後にする番だった。
職場の駐車場は、夏が始まる前に席替えをさせられていた。一番山肌に近い、舗装もされていないハズレの場所へと車を停めることとなってから、初めての秋が来た。
夏の間、雑草は一度も刈り取られることはなく、バックモニターに生い茂った雑草が映る度に警告音が鳴り響いた。
もっと下がれるはずだ。もっと、もっと下がらないと、迎え側の車に迷惑になる。
そんな思いで警告音を無視して下がれば、『ビー!!』と、物凄い音と共にモニターが赤に染まり自動運転ブレーキが作動するのだ。毎朝私はそんなふうに強制的にストップをさせられた。まるでホラーゲームをしていて、ゲームオーバーになってしまった感覚を味合わされる。その度私の気分は陰に傾いた。
車を降り、坂道を歩いて下る中にも、雑草がそこら中にあった。私はそこを通る度、危険生物に出会いやしないかと警戒しながら歩いた。
鉄骨階段の手前にある三本の雑草は、以前ウグイスが鳴く頃には私の膝丈ほどしかなかったのに、夏の終わりには私の方が見下ろされるぐらいに背丈を伸ばしていた。
去年までここにいた用務員のおじさんは、こんな所の草刈りまでしてくれていたんだと、雑草と過ぎ去り際に背を比べながら、おじさんの存在のありがたみを感じさせられる夏を過ごしてきたのだ。
しかし、今朝は景色が変わっていた。
自動運転ブレーキが作動しない。
モニターに映る雑草が、スッキリと無くなっていたのだ。鉄骨階段を降りる時の雑草との背比べも、対象物がないから肩透かしを食らった。
最近入社された用務員さんが、草刈機を動かしてくれたようだ。ありがたいと思った。と同時に、以前一緒に過ごした用務員のおじさんを再び思い出してしまった。
こんな狭い世界で過ごす私の周りにも、沢山の変化が起きている。
過去を懐かしみ悲しくなる私と、その後どうなるのかという新鮮さが、心の中で混ざりあった。細かく言えば、もっと色んな感情があったけど、私には上手く言語化できそうにない。例えるなら、色んな味の混ざりあった飲み物のようだ。上手いのか不味いのか、二択で結論付けられない複雑な味。どちらかというと私の気分は陽寄りだった。
久しぶりに秘密基地の裏庭へと立ち寄ろうと思った。近頃はギリギリの出勤で、秘密基地のベンチに座ることもなかった。でも今日は、五分は時間がある。
木製のベンチへと久しぶりに腰掛けた。
誰もいないからド真ん中に腰掛けて、カバンと着替え袋を左右に置いた。
なぜ私はいつも左端に座って、誰も来やしない貸切のベンチを空けていたのだろうか。
こうやって広々として座り、だらしなく脚を投げ出して腰かければ、自然と空の色が目に入るのに。
10月の秋の裏庭は、ひんやりとした空気に包まれていた。もう暑かった夏のこの場所がどうだったかなんて、細かいことは忘れてしまった。
時の流れが、なぜだか緩やかに感じられた。
私は今朝の味噌汁の美味しさを思い出した。